方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返《いっぺん》断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午《ひる》までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
二人はこういう会話と共に午飯《ひるめし》を済ました。
四十五
手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ後《おく》らせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口《ひとくち》劇場の名を云ったなり、すぐ俥《くるま》に乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
小路《こうじ》を出た護謨輪《ゴムわ》は電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただ賑《にぎ》やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方《かけかた》が、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体《からだ》が浮《うわ》つきながら早く揺《うご》くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛《ふん》として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
車上の彼女は宅《うち》の事を考える暇がなかった。機嫌《きげん》よく病院の二階へ寝かして来た津田の影像《イメジ》が、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支《さしつか》えないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好《しこう》を始めからもっていない彼女は、時間が後《おく》れたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟《しげき》であると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。
俥は茶屋の前でとまった。挨拶《あいさつ》をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯《ちょうちん》だの暖簾《のれん》だの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜《さくそう》した、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間《すきま》から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入《しゅつにゅう》したがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇《くらやみ》を通り抜けて、急に明海《あかるみ》へ出た人のように眼を覚《さ》ました。そうしてこの氛囲気《ふんいき》の片隅《かたすみ》に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作《きょしどうさ》共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子《つぎこ》は、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣《きづか》うように、後《うしろ》を向いて筋違《すじかい》に身体《からだ》を延ばしながらお延に訊《き》いた。
「見えて? 少しここと換《かわ》ってあげましょうか」
「ありがとう。ここでたくさん」
お延は首を振って見せた。
お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子《ゆりこ》は左利《ひだりきき》なので、左の手に軽い小さな象牙製《ぞうげせい》の双眼鏡を持ったまま、その肱《ひじ》を、赤い布《きれ》で裹《つつ》んだ手摺《てすり》の上に載《の》せながら、後《うしろ》をふり返った。
「遅かったのね。あたし宅《うち》の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」
年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶《あいさつ》かたがたお延に何か云うほどの智慧《ちえ》をもたなかった。
「御用があったの?」
「ええ」
お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻《さっき》から姉妹《きょうだい》の母親が傍目《わきめ》もふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木《ひょうしぎ》の鳴るまでついに一言《ひとこと》も口を利《き》かなかった。
四十六
「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻《さっき》継《つぎ》と話してたの」
幕が引かれてから、始めてうち寛《くつ》ろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその後《あと》を云い足した。
「あたしお母さまと賭《かけ》をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」
「そう。また御神籤《おみくじ》を引いて」
継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書《てんしょ》の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙《ぞうげ》を平たく削《けず》った精巧の番号札が数通《かずどお》り百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入《こようじいれ》を取り扱うような手つきで、短冊形《たんざくがた》の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入《もんくいり》の折手本《おりでほん》を繰《く》りひろげて見た。そうしてそこに書いてある蠅《はえ》の頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重《はぶたえ》の裏をつけた更紗《さらさ》の袋から取り出して、もったいらしくその上へ翳《かざ》したりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具《おもちゃ》としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的《ゆうぎてき》に着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時として帙《ちつ》入のままそれを机の上から取って帯の間に挟《はさ》んで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」
お延は調戯半分《からかいはんぶん》彼女に訊《き》いて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母が傍《そば》から彼女に代って返事をするごとくに云った。
「今日の予言はお神籤《みくじ》じゃないのよ。お神籤よりもっと偉《えら》い予言なの」
「そう」
お延は後が聞きたそうにして、母子《おやこ》を見比べた。
「継《つぎ》はね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被《おっかぶ》せるようにとめた。
「止《よ》してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」
今まで黙って三人の会話を聴《き》いていた妹娘の百合子《ゆりこ》が、くすくす笑い出した。
「あたし云ってあげてもいいわ」
「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノを浚《さら》って上げないから」
母は隣りにいる人の注意を惹《ひ》かないように、小さな声を出して笑った。お延もおかしかった。同時になお訳が訊《き》きたかった。
「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」
百合子はわざと腮《あご》を前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。
「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」
こう云いながら立つと、継子は後《うしろ》の戸を開けてすぐ廊下へ出た。
「お姉さま怒ったのね」
「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」
「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」
「だから話してちょうだいよ」
年歯《とし》の六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それを旨《うま》く利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態を崩《くず》していたので、お延の慫慂《しょうよう》は何の効目《ききめ》もなかった。母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負《しょ》わなければならなかった。
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」
「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母《たのも》しく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」
「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」
「まあ」
お延は弱い感投詞《かんとうし》をむしろ淋《さみ》しそうに投げた。
四十七
手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕《あさゆう》尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一《ゆいいつ》の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。
「良人《おっと》というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿《かいめん》に過ぎないのだろうか」
これがお延のとうから叔母《おば》にぶつかって、質《ただ》して見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位《きぐらい》があった。見方次第では痩我慢《やせがまん》とも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制《けんせい》した。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲《すもう》を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、体《てい》よく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へ曝《さら》すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。
その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届《ふゆきとどき》からでも出たように、傍《はた》から解釈されてはならないと日頃から掛念《けねん》していた。すべての噂《うわさ》のうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。
「世間には津田よりも何層倍か気《き》むずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人《おっと》を綾《あや》なして行けないのは、畢竟《ひっきょう》知恵《ちえ》がないからだ」
知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありな
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