云っても、また来客を待ち受ける準備としても、物々しいものであった。津田は席につかない先にまず直感した。
「すべてが改《あらた》まっている。これが今日会う二人の間に横《よこた》わる運命の距離なのだろう」
 突然としてここに気のついた彼は、今この室へ入り込んで来た自分をとっさに悔いようとした。
 しかしこの距離はどこから起ったのだろう? 考えれば起るのが当り前であった。津田はただそれを忘れていただけであった。では、なぜそれを忘れていたのだろう? 考えれば、これも忘れているのが当り前かも知れなかった。
 津田がこんな感想に囚《とら》えられて、控《ひかえ》の間《ま》に立ったまま、室を出るでもなし、席につくでもなし、うっかり眼前の座蒲団を眺めている時に、主人側の清子は始めてその姿を縁側の隅《すみ》から現わした。それまで彼女がそこで何をしていたのか、津田にはいっこう解《げ》せなかった。また何のために彼女がわざわざそこへ出ていたのか、それも彼には通じなかった。あるいは室を片づけてから、彼の来るのを待ち受ける間、欄干の隅に倚《よ》りかかりでもして、山に重《かさ》なる黄葉《こうよう》の色でも眺めていたのかも知れなかった。それにしても様子が変であった。有体《ありてい》に云えば、客を迎えるというより偶然客に出喰《でっく》わしたというのが、この時の彼女の態度を評するには適当な言葉であった。
 しかし不思議な事に、この態度は、しかつめらしく彼の着席を待ち受ける座蒲団や、二人の間を堰《せ》くためにわざと真中に置かれたように見える角火鉢《かくひばち》ほど彼の気色《きしょく》に障《さわ》らなかった。というのは、それが元から彼の頭に描き出されている清子と、全く釣り合わないまでにかけ離れた態度ではなかったからである。
 津田の知っている清子はけっしてせせこましい女でなかった。彼女はいつでも優悠《おっとり》していた。どっちかと云えばむしろ緩漫というのが、彼女の気質、またはその気質から出る彼女の動作について下し得る特色かも知れなかった。彼は常にその特色に信を置いていた。そうしてその特色に信を置き過ぎたため、かえって裏切られた。少くとも彼はそう解釈した。そう解釈しつつも当時に出来上った信はまだ不自覚の間に残っていた。突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻《ひる》がえす燕《つばめ》のように早かったかも知れないが、それはそれ、これはこれであった。二つのものを結びつけて矛盾なく考えようとする時、悩乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であったごとく、乙もやッぱり本当でなければならなかった。
「あの緩《のろ》い人はなぜ飛行機へ乗った。彼はなぜ宙返りを打った」
 疑いはまさしくそこに宿るべきはずであった。けれども疑おうが疑うまいが、事実はついに事実だから、けっしてそれ自身に消滅するものでなかった。
 反逆者の清子は、忠実なお延よりこの点において仕合せであった。もし津田が室《へや》に入って来た時、彼の気合を抜いて、間《ま》の合わない時分に、わざと縁側の隅《すみ》から顔を出したものが、清子でなくって、お延だったなら、それに対する津田の反応ははたしてどうだろう。
「また何か細工をするな」
 彼はすぐこう思うに違なかった。ところがお延でなくって、清子によって同じ所作《しょさ》が演ぜられたとなると結果は全然別になった。
「相変らず緩漫だな」
 緩漫と思い込んだあげく、現に眼覚《めざま》しい早技《はやわざ》で取って投げられていながら、津田はこう評するよりほかに仕方がなかった。
 その上清子はただ間《ま》を外《はず》しただけではなかった。彼女は先刻《さっき》津田が吉川夫人の名前で贈りものにした大きな果物籃《くだものかご》を両手でぶら提《さ》げたまま、縁側の隅から出て来たのである。どういうつもりか、今までそれを荷厄介《にやっかい》にしているという事自身が、津田に対しての冷淡さを示す度盛《どもり》にならないのは明かであった。それからその重い物を今まで縁側の隅で持っていたとすれば無論、いったん下へ置いてさらに取り上げたと解釈しても、彼女の所作は変に違《ちがい》なかった。少くとも不器用であった。何だか子供染《こどもじ》みていた。しかし彼女の平生をよく知っている津田は、そこにいかにも清子らしい或物を認めざるを得なかった。
「滑稽《こっけい》だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」
 重そうに籃《かご》を提《さ》げている清子の様子を見た津田は、ほとんどこう云いたくなった。

        百八十四

 すると清子はその籃《かご》をすぐ下女に渡した。下女はどうしていいか解《わか》らないので、器械的に手を出してそれを受取ったなり、黙っていた。この単純な所作が双方の間に行われるあいだ、津田は依然として立っていなければならなかった。しかし普通の場合に起る手持無沙汰《てもちぶさた》の感じの代りに、かえって一種の気楽さを味わった彼には何の苦痛も来《こ》ずにすんだ。彼はただ間《ま》の延びた挙動の引続きとして、平生の清子と矛盾しない意味からそれを眺めた。だから昨夜《ゆうべ》の記憶からくる不審も一倍に強かった。この逼《せま》らない人が、どうしてあんなに蒼《あお》くなったのだろう。どうしてああ硬く見えたのだろう。あの驚ろき具合とこの落ちつき方、それだけはどう考えても調和しなかった。彼は夜と昼の区別に生れて初めて気がついた人のような心持がした。
 彼は招ぜられない先に、まず自分から設けの席に着いた。そうして立ちながら果物《くだもの》を皿に盛るべく命じている清子を見守った。
「どうもお土産《みやげ》をありがとう」
 これが始めて彼女の口を洩《も》れた挨拶《あいさつ》であった。話頭《わとう》はそのお土産を持って来た人から、その土産をくれた人の好意に及ばなければならなかった。もとより嘘《うそ》を吐《つ》く覚悟で吉川夫人の名前を利用したその時の津田には、もうごまかすという意識すらなかった。
「道伴《みちづれ》になったお爺《じい》さんに、もう少しで蜜柑をやっちまうところでしたよ」
「あらどうして」
 津田は何と答えようが平気であった。
「あんまり重くって荷になって困るからです」
「じゃ来る途中|始終《しじゅう》手にでも提《さ》げていらしったの」
 津田にはこの質問がいかにも清子らしく無邪気に聴《きこ》えた。
「馬鹿にしちゃいけません。あなたじゃあるまいし、こんなものを提げて、縁側をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていられるもんですか」
 清子はただ微笑しただけであった。その微笑には弁解がなかった。云い換えれば一種の余裕があった。嘘《うそ》から出立した津田の心はますます平気になるばかりであった。
「相変らずあなたはいつでも苦《く》がなさそうで結構ですね」
「ええ」
「ちっとももとと変りませんね」
「ええ、だって同《おん》なじ人間ですもの」
 この挨拶《あいさつ》を聞くと共に、津田は急に何か皮肉を云いたくなった。その時皿の中へ問題の蜜柑を盛り分けていた下女が突然笑い出した。
「何を笑うんだ」
「でも、奥さんのおっしゃる事がおかしいんですもの」と弁解した彼女は、真面目《まじめ》な津田の様子を見て、後からそれを具体的に説明すべく余儀なくされた。
「なるほど、そうに違いございませんね。生きてるうちはどなたも同《おん》なじ人間で、生れ変りでもしなければ、誰だって違った人間になれっこないんだから」
「ところがそうでないよ。生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから」
「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目にかかりたいもんだけれども」
「お望みなら逢《あ》わせてやってもいいがね」
「どうぞ」といった下女はまたげらげら笑い出した。「またこれでしょう」
 彼女は人指指《ひとさしゆび》を自分の鼻の先へ持って行った。
「旦那様《だんなさま》のこれにはとても敵《かな》いません。奥さまのお部屋をちゃんと臭《におい》で嗅《か》ぎ分ける方《かた》なんですから」
「部屋どころじゃないよ。お前の年齢《とし》から原籍から、生れ故郷から、何から何まであてるんだよ。この鼻一つあれば」
「へえ恐ろしいもんでございますね。――どうも敵わない、旦那様に会っちゃ」
 下女はこう云って立ち上った。しかし室《へや》を出《で》がけにまた一句の揶揄《やゆ》を津田に浴びせた。
「旦那様はさぞ猟がお上手でいらっしゃいましょうね」
 日当りの好い南向《みなみむき》の座敷に取り残された二人は急に静かになった。津田は縁側に面して日を受けて坐っていた。清子は欄干《らんかん》を背にして日に背《そむ》いて坐っていた。津田の席からは向うに見える山の襞《ひだ》が、幾段にも重なり合って、日向日裏《ひなたひうら》の区別を明らさまに描き出す景色が手に取るように眺められた。それを彩《いろ》どる黄葉《こうよう》の濃淡がまた鮮《あざ》やかな陰影の等差を彼の眸中《ぼうちゅう》に送り込んだ。しかし眼界の豁《ひろ》い空間に対している津田と違って、清子の方は何の見るものもなかった。見れば北側の障子《しょうじ》と、その障子の一部分を遮《さえ》ぎる津田の影像《イメジ》だけであった。彼女の視線は窮屈であった。しかし彼女はあまりそれを苦にする様子もなかった。お延ならすぐ姿勢を改めずにはいられないだろうというところを、彼女はむしろ落ちついていた。
 彼女の顔は、昨夕《ゆうべ》と反対に、津田の知っている平生の彼女よりも少し紅《あか》かった。しかしそれは強い秋の光線を直下《じか》に受ける生理作用の結果とも解釈された。山を眺めた津田の眼が、端《はし》なく上気した時のように紅く染った清子の耳朶《みみたぶ》に落ちた時、彼は腹のうちでそう考えた。彼女の耳朶は薄かった。そうして位置の関係から、肉の裏側に差し込んだ日光が、そこに寄った彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映ってくるように思われた。

        百八十五

 こんな場合にどっちが先へ口を利《き》き出すだろうか、もし相手がお延だとすると、事実は考えるまでもなく明暸《めいりょう》であった。彼女は津田に一寸《いっすん》の余裕も与えない女であった。その代り自分にも五分《ごぶ》の寛《くつろ》ぎさえ残しておく事のできない性質《たち》に生れついていた。彼女はただ随時随所に精一杯の作用をほしいままにするだけであった。勢い津田は始終《しじゅう》受身の働きを余儀なくされた。そうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを甞《な》めなければならなかった。
 ところが清子を前へ据《す》えると、そこに全く別種の趣《おもむき》が出て来た。段取は急に逆になった。相撲《すもう》で云えば、彼女はいつでも津田の声を受けて立った。だから彼女を向うへ廻した津田は、必ず積極的に作用した。それも十が十まで楽々とできた。
 二人取り残された時の彼は、取り残された後で始めてこの特色に気がついた。気がつくと昔の女に対する過去の記憶がいつの間《ま》にか蘇生していた。今まで彼の予想しつつあった手持無沙汰《てもちぶさた》の感じが、ちょうどその手持無沙汰の起らなければならないと云う間際へ来て、不思議にも急に消えた。彼は伸《の》び伸びした心持で清子の前に坐っていた。そうしてそれは彼が彼女の前で、事件の起らない過去に経験したものと大して変っていなかった。少くとも同じ性質のものに違《ちがい》ないという自覚が彼の胸のうちに起った。したがって談話の途切れた時積極的に動き始めたものは、昔の通り彼であった。しかも昔《むか》しの通りな気分で動けるという事自身が、彼には思いがけない満足になった。
「関君はどうしました。相変らず御勉強ですか。その後|御無沙汰《ごぶさた》をしていっこうお目にかかりませんが」
 津田は何の気もつかなかった。会話の皮切《かわきり》に清子の夫を問題にする事の可否は、利害関係から見ても、今日《こんにち》まで自分ら二人の間に起った感情の
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