行掛《ゆきがか》り上《じょう》から考えても、またそれらの纏綿《てんめん》した情実を傍《かたわら》に置いた、自然不自然の批判から云っても、実は一思案《ひとしあん》しなければならない点であった。それを平生の細心にも似ず、一顧の掛念《けねん》さえなく、ただ無雑作《むぞうさ》に話頭《わとう》に上せた津田は、まさに居常《きょじょう》お延に対する時の用意を取り忘れていたに違《ちがい》なかった。
 しかし相手はすでにお延でなかった。津田がその用心を忘れても差支えなかったという証拠は、すぐ清子の挨拶《あいさつ》ぶりで知れた。彼女は微笑して答えた。
「ええありがとう。まあ相変らずです。時々二人してあなたのお噂《うわさ》を致しております」
「ああそうですか。僕も始終《しじゅう》忙がしいもんですから、方々へ失礼ばかりして……」
「良人《うち》も同《おん》なじよ、あなた。近頃じゃ閑暇《ひま》な人は、まるで生きていられないのと同なじ事ね。だから自然御互いに遠々しくなるんですわ。だけどそれは仕方がないわ、自然の成行だから」
「そうですね」
 こう答えた津田は、「そうですね」という代りに「そうですか」と訊《き》いて見たいような気がした。「そうですか、ただそれだけで疎遠になったんですか。それがあなたの本音《ほんね》ですか」という詰問はこの時すでに無言の文句となって彼の腹の中に蔵《かく》れていた。
 しかも彼はほとんど以前と同じように単純な、もしくは単純とより解釈のできない清子を眼前に見出《みいだ》した。彼女の態度には二人の間に関を話題にするだけの余裕がちゃんと具《そなわ》っていた。それを口にして苦《く》にならないほどの淡泊《たんぱく》さが現われていた。ただそれは津田の暗《あん》に予期して掛《かか》ったところのもので、同時に彼のかつて予想し得なかったところのものに違なかった。昔のままの女主人公に再び会う事ができたという満足は、彼女がその昔しのままの鷹揚《おうよう》な態度で、関の話を平気で津田の前にし得るという不満足といっしょに来なければならなかった。
「どうしてそれが不満足なのか」
 津田は面と向ってこの質問に対するだけの勇気がなかった。関が現に彼女の夫である以上、彼は敬意をもって彼女のこの態度を認めなければならなかった。けれどもそれは表通りの沙汰《さた》であった。偶然往来を通る他人のする批評に過ぎなかった。裏には別な見方があった。そこには無関心な通りがかりの人と違った自分というものが頑張《がんば》っていた。そうしてその自分に「私」という名を命《つ》ける事のできなかった津田は、飽《あ》くまでもそれを「特殊な人」と呼ぼうとしていた。彼のいわゆる特殊な人とはすなわち素人《しろうと》に対する黒人《くろうと》であった。無知者に対する有識者であった。もしくは俗人に対する専門家であった。だから通り一遍のものより余計に口を利く権利をもっているとしか、彼には思えなかった。
 表で認めて裏で首肯《うけが》わなかった津田の清子に対する心持は、何かの形式で外部へ発現するのが当然であった。

        百八十六

「昨夕《ゆうべ》は失礼しました」
 津田は突然こう云って見た。それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の覘《ねら》いどころであった。
「私《わたくし》こそ」
 清子の返事はすらすらと出た。そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。
「この女は今朝《けさ》になってもう夜の驚ろきを繰り返す事ができないのかしら」
 もしそれを憶《おも》い起す能力すら失っているとすると、彼の使命は善にもあれ悪にもあれ、はかないものであった。
「実はあなたを驚ろかした後で、すまない事をしたと思ったのです」
「じゃ止《よ》して下さればよかったのに」
「止せばよかったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの」
「でも私への御土産《おみやげ》を持って、わざわざ東京から来て下すったんでしょう」
「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼にかかっただけです」
「そうですか知ら」
 故意《こい》を昨夕の津田に認めているらしい清子の口吻《こうふん》が、彼を驚ろかした。
「だって、わざとあんな真似《まね》をする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興《すいきょう》だって」
「だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね」
 津田は水盤に溢《あふ》れる水を眺めていたに違《ちがい》なかった。姿見《すがたみ》に映るわが影を見つめていたに違なかった。最後にそこにある櫛《くし》を取って頭まで梳《か》いてぐずぐずしていたに違なかった。
「迷児《まいご》になって、行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか」
「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」
「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談《じょうだん》じゃない。いくら僕の鼻が万能《まんのう》だって、あなたの湯泉《ゆ》に入る時間まで分りゃしませんよ」
「なるほど、そりゃそうね」
 清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと合点《がてん》したらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。
「いったい何だって、そんな事を疑《うたぐ》っていらっしゃるんです」
「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」
「解りっこないじゃありませんか」
「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」
 津田は仕方なしに側面から向った。
「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の隅《すみ》で待ち伏せていたんです。それを話して下さい」
「そりゃ話せないわ」
「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」
「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」
「しかし自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せるはずだと思いますがね」
「私の胸に何にもありゃしないわ」
 単純なこの一言《いちごん》は急に津田の機鋒《きほう》を挫《くじ》いた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。
「なければどこからその疑いが出て来たんです」
「もし疑ぐるのが悪ければ、謝《あや》まります。そうして止《よ》します」
「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」
「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」
「だからその事実を聴《き》かせて下さればいいんです」
「事実はすでに申し上げたじゃないの」
「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」
「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」
「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口《ひとくち》で済んじまう事です」
 今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑《ふ》に落ちたという顔つきをした。
「ああ、それがお聴きになりたいの」
「無論です。先刻《さっき》からそれが伺いたければこそ、こうしてしつこくあなたを煩《わずら》わせているんじゃありませんか。それをあなたが隠そうとなさるから――」
「そんならそうと早くおっしゃればいいのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由《わけ》は何でもないのよ。ただあなたはそういう事をなさる方なのよ」
「待伏せをですか」
「ええ」
「馬鹿にしちゃいけません」
「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。嘘《うそ》でも偽《いつわ》りでもないんですもの」
「なるほど」
 津田は腕を拱《こまぬ》いて下を向いた。

        百八十七

 しばらくして津田はまた顔を上げた。
「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」
 清子は答えた。
「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意《こい》じゃないのよ」
「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」
「まあそうね」
 清子はまた微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。
「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」
「ええ何なりと」
 清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。
「何もかももう忘れているんだ、この人は」
 こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。彼は駄目《だめ》を押すような心持になって訊いた。
「しかし昨夕《ゆうべ》階子段《はしごだん》の上で、あなたは蒼《あお》くなったじゃありませんか」
「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」
「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐《うそつき》でもなかったんですね、ありがたい。僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね」
「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」
「そう。――それから硬《かた》くなりましたね」
「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」
「つまり驚ろいたんでしょう」
「ええずいぶん吃驚《びっくり》したわ」
「それで」と云いかけた津田は、俯向加減《うつむきかげん》になって鄭寧《ていねい》に林檎《りんご》の皮を剥《む》いている清子の手先を眺めた。滴《したた》るように色づいた皮が、ナイフの刃を洩《も》れながら、ぐるぐると剥《む》けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼《うすあお》い肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上|経《た》った昔を憶《おも》い起させた。
「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎《りんご》を剥《む》いてくれたんだっけ」
 ナイフの持ち方、指の運び方、両肘《りょうひじ》を膝《ひざ》とすれすれにして、長い袂《たもと》を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。それは彼女の指を飾る美くしい二個《ふたつ》の宝石であった。もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮《さえ》ぎるものはなかった。柔婉《しなやか》に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然《さんぜん》たる警戒の閃《ひら》めきを認めなければならなかった。
 彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。しかし今朝《けさ》下女が結《い》ってやったというその髪は通例の庇《ひさし》であった。何の奇も認められない黒い光沢《つや》が、櫛《くし》の歯を入れた痕《あと》を、行儀正しく竪《たて》に残しているだけであった。
 津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。
「それで僕の訊《き》きたいのはですね――」
 清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。
「昨夕《ゆうべ》そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」
 清子は俯向《うつむ》いたまま答えた。
「なぜ」
「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」
 清子はやっぱり津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」
「説明はそれだけなんですか」
「ええそれだけよ」
 もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息《ためいき》を吐《つ》くところであった。けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑《おさ》えつけた
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