や正月になったら大変だろう」
「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」
津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を極《きわ》めなければならない季節に、この家《うち》へ入《い》り込《こ》んでくる客の人数《にんず》を挙げた。
百八十一
食後の津田は床《とこ》の脇《わき》に置かれた小机の前に向った。下女に頼んで取り寄せた絵端書へ一口ずつ文句を書き足して、その表へ名宛《なあて》を記《しる》した。お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は済んでしまったのに、下女の持って来た絵端書はまだ幾枚も余っていた。
彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の滝《たき》だの、ルナ公園《パーク》だのと、山里に似合わない変な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。それからまた印気《インキ》を走らせた。今度はお秀の夫と京都にいる両親|宛《あて》の分がまたたく間《ま》に出来上った。こう書き出して見ると、ついでだからという気も手伝って、ありたけの絵端書をみんな使ってしまわないと義理が悪いようにも思われた。最初は考えていなかった岡本だの、岡本の子供の一《はじめ》だの、その一の学校友達という連想から、また自分の親戚《みうち》の方へ逆戻りをして、甥《おい》の真事《まこと》だの、いろいろな名がたくさん並べられた。初手《しょて》から気がついていながら、最後まで名を書かなかったのは小林だけであった。他《ほか》の意味は別として、ただ在所《ありか》を嗅《か》ぎつけられるという恐れから、津田はどうしてもこの旅行先を彼に知らせたくなかったのである。その小林は不日《ふじつ》朝鮮へ行くべき人であった。無検束をもって自《みずか》ら任ずる彼は、海を渡る覚悟ですでにもう汽車に揺られているかも知れなかった。同時に不規律な彼はまた出立と公言した日が来ても動かずにいないとも限らなかった。絵端書を見て、(もし津田がそれを出すとすると、)すぐここへやって来ないという事はけっして断言できなかった。
津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介《やっかい》なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙《そば》だてた。するといったん緒口《いとくち》の開《あ》いた想像の光景《シーン》はそこでとまらなかった。彼を拉《らっ》してずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴《どな》り込むような大きな声を出して彼の室《へや》へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴《ほうふつ》した。
「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭《いや》がらせに来たんだ」
「どういう理由《わけ》で」
「理由も糸瓜《へちま》もあるもんか。貴様がおれを厭《いや》がる間は、いつまで経《た》ってもどこへ行っても、ただ追《おっ》かけるんだ」
「畜生ッ」
津田は突然|拳《こぶし》を固めて小林の横《よこ》ッ面《つら》を撲《なぐ》らなければならなかった。小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室《へや》の真中へ踏《ふ》ん反《ぞ》り返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」
まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。そうしてそれが宿中《やどじゅう》の視聴を脅《おびや》かさなければならなかった。その中には是非とも清子が交《まじ》っていなければならなかった。万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。
事実よりも明暸《めいりょう》な想像の一幕《ひとまく》を、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。もしそんな馬鹿げた立ち廻りが実際生活の表面に現われたらどうしようと考えた。彼は羞恥《しゅうち》と屈辱を遠くの方に感じた。それを象徴するために、頬《ほお》の内側が熱《ほて》って来るような気さえした。
しかし彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。他《ひと》に対して面目《めんぼく》を失う事、万一そんな不始末をしでかしたら大変だ。これが彼の倫理観の根柢《こんてい》に横《よこた》わっているだけであった。それを切りつめると、ついに外聞が悪いという意味に帰着するよりほかに仕方がなかった。だから悪い奴《やつ》はただ小林になった。
「おれに何の不都合《ふつごう》がある。彼奴《あいつ》さえいなければ」
彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。そうして自分を不面目にするすべての責任を相手に背負《しょ》わせた。
夢のような罪人に宣告を下した後《あと》の彼は、すぐ心の調子を入れ代えて、紙入の中から一枚の名刺を出した。その裏に万年筆で、「僕は静養のため昨夜《さくや》ここへ来ました」と書いたなり首を傾けた。それから「あなたがおいでの事を今朝《けさ》聴きました」と付け足してまた考えた。
「これじゃ空々《そらぞら》しくっていけない、昨夜《ゆうべ》会った事も何とか書かなくっちゃ」
しかし当《あた》り障《さわ》りのないようにそこへ触れるのはちょっと困難であった。第一書く事が複雑になればなるほど、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。彼はなるべく淡泊《あっさり》した口上を伝えたかった。したがって小面倒な封書などは使いたくなかった。
思いついたように違《ちが》い棚《だな》の上を眺めた彼は、まだ手をつけなかった吉川夫人の贈物が、昨日《きのう》のままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸《おろ》した。彼は果物籃《くだものかご》の葢《ふた》の間へ、「御病気はいかがですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿《さ》し込んだ後《あと》で、下女を呼んだ。
「宅《うち》に関さんという方がおいでだろう」
今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが先刻《さっき》お話した奥さんの事ですよ」
「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」
「へえ」
下女はすぐ果物籃を提《さ》げて廊下へ出た。
百八十二
返事を待ち受ける間の津田は居据《いすわ》りの悪い置物のように落ちつかなかった。ことにすぐ帰って来《く》べきはずの下女が思った通りすぐ帰って来ないので、彼はなおの事心を遣《つか》った。
「まさか断るんじゃあるまいな」
彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を解《と》く好い方便に違《ちがい》なかった。単に彼と応接する煩《わずら》わしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑《けんぎ》を避けようとするのが彼女の当体《とうたい》であったにしたところで、果物籃《くだものかご》の礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、下女の遅いのを一層|苦《く》にしなければならなかった彼は、ふかしかけた煙草《たばこ》を捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙って池の中を動いている緋鯉《ひごい》を眺めたり、そこへしゃがんで、軒下に寝ている犬の鼻面《はなづら》へ手を延ばして見たりした。やっとの事で、下女の足音が廊下の曲り角に聴《きこ》えた時に、わざと取り繕《つくろ》った余裕を外側へ示したくなるほど、彼の心はそわそわしていた。
「どうしたね」
「お待遠さま。大変遅かったでしょう」
「なにそうでもないよ」
「少しお手伝いをしていたもんですから」
「何の?」
「お部屋を片づけてね、それから奥さんの御髪《おぐし》を結《い》って上げたんですよ。それにしちゃ早いでしょう」
津田は女の髷《まげ》がそんなに雑作《ぞうさ》なく結《ゆ》える訳のものでないと思った。
「銀杏返《いちょうがえ》しかい、丸髷《まるまげ》かい」
下女は取り合わずにただ笑い出した。
「まあ行って御覧なさい」
「行って御覧なさいって、行っても好いのかい。その返事を先刻《さっき》からこうして待ってるんじゃないか」
「おやどうもすみません、肝心《かんじん》のお返事を忘れてしまって。――どうぞおいで下さいましって」
やっと安心した津田は、立上りながらわざと冗談半分《じょうだんはんぶん》に駄目《だめ》を押した。
「本当かい。迷惑じゃないかね。向《むこう》へ行ってから気の毒な思いをさせられるのは厭《いや》だからね」
「旦那様《だんなさま》はずいぶん疑《うたぐ》り深《ぶか》い方《かた》ですね。それじゃ奥さんもさぞ――」
「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」
「どっちだか解ってるじゃありませんか」
「いや解らない」
「そうでございますか」
兵児帯《へこおび》を締め直した津田の後《うし》ろへ廻った下女は、室《へや》を出ようとする背中から羽織をかけてくれた。
「こっちかい」
「今御案内を致します」
下女は先へ立った。夢遊病者《むゆうびょうしゃ》として昨夕《ゆうべ》彷徨《さまよ》った記憶が、例の姿見《すがたみ》の前へ出た時、突然津田の頭に閃《ひら》めいた。
「ああここだ」
彼は思わずこう云った。事情を知らない下女は無邪気に訊《き》き返した。
「何がです」
津田はすぐごまかした。
「昨夕僕が幽霊に出会ったのはここだというのさ」
下女は変な顔をした。
「馬鹿をおっしゃい。宅《うち》に幽霊なんか出るもんですか。そんな事をおっしゃると――」
客商売をする宿に対して悪い洒落《しゃれ》を云ったと悟った津田は、賢《かし》こく二階を見上げた。
「この上だろう、関さんのお室は」
「ええ、よく知ってらっしゃいますね」
「うん、そりゃ知ってるさ」
「天眼通《てんがんつう》ですね」
「天眼通じゃない、天鼻通《てんびつう》と云って万事鼻で嗅《か》ぎ分《わ》けるんだ」
「まるで犬見たいですね」
階子段《はしごだん》の途中で始まったこの会話は、上《あが》り口《くち》の一番近くにある清子の部屋からもう聴き取れる距離にあった。津田は暗《あん》にそれを意識した。
「ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ」
彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止《と》めた。
「ここだ」
下女は横眼で津田の顔を睨《にら》めるように見ながら吹き出した。
「どうだ当ったろう」
「なるほどあなたの鼻はよく利《き》きますね。猟犬《りょうけん》よりたしかですよ」
下女はまた面白そうに笑ったが、室の中からはこの賑《にぎ》やかさに対する何の反応も出て来なかった。人がいるかいないかまるで分らない内側は、始めと同じように索寞《ひっそり》していた。
「お客さまがいらっしゃいました」
下女は外部《そと》から清子に話しかけながら、建てつけの好い障子《しょうじ》をすうと開けてくれた。
「御免下さい」
一言《いちごん》の挨拶《あいさつ》と共に室《へや》の中に入った津田はおやと思った。彼は自分の予期通り清子をすぐ眼の前に見出し得なかった。
百八十三
室は二間続《ふたまつづ》きになっていた。津田の足を踏み込んだのは、床《とこ》のない控えの間の方であった。黒柿の縁《ふち》と台の付いた長方形の鏡の前に横竪縞《よこたてじま》の厚い座蒲団《ざぶとん》を据《す》えて、その傍《かたわら》に桐《きり》で拵《こし》らえた小型の長火鉢《ながひばち》が、普通の家庭に見る茶の間の体裁《ていさい》を、小規模ながら髣髴《ほうふつ》せしめた。隅《すみ》には黒塗の衣桁《いこう》があった。異性に附着する花やかな色と手触《てざわ》りの滑《すべ》こそうな絹の縞《しま》が、折り重なってそこに投げかけられていた。
間《あい》の襖《ふすま》は開け放たれたままであった。津田は正面に当る床の間に活立《いけたて》らしい寒菊の花を見た。前には座蒲団が二つ向い合せに敷いてあった。濃茶《こげちゃ》に染めた縮緬《ちりめん》のなかに、牡丹《ぼたん》か何かの模様をたった一つ丸く白に残したその敷物は、品柄から
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