に裏の山へ散歩に参りましょうってお約束をしたもんですからね」
「じゃちょっと伺って参りましょう」
「いいえ、もういいのよ。散歩はこの通り済んじまったんだから。ただもしやどこかお加減でも悪いのじゃないかしらと思って、ちょっと番頭さんに訊いてみただけよ」
「多分ただのお休みだろうと思いますが、それとも――」
「それともなんて、そう真面目《まじめ》くさらなくってもいいのよ。ただ訊いてみただけなんだから」
二人はそれぎり行き過ぎた。津田は歯磨粉で口中《こうちゅう》をいっぱいにしながら、また昨夜《ゆうべ》の風呂場を探《さが》しに廊下へ出た。
百七十九
しかし探すなどという大袈裟《おおげさ》な言葉は、今朝の彼にとって全く無用であった。路《みち》に曲折の難はあったにせよ、一足《ひとあし》の無駄も踏まずに、自然|昨夜《ゆうべ》の風呂場へ下りられた時、彼の腹には、夜来の自分を我ながら馬鹿馬鹿しいと思う心がさらに新らしく湧《わ》いて出た。
風呂場には軒下に篏《は》めた高い硝子戸《ガラスど》を通して、秋の朝日がかんかん差し込んでいた。その硝子戸|越《ごし》に岩だか土堤《どて》だかの片影を、近く頭の上に見上げた彼は、全身を温泉《ゆ》に浸《つ》けながら、いかに浴槽《よくそう》の位置が、大地の平面以下に切り下げられているかを発見した。そうしてこの崖《がけ》と自分のいる場所との間には、高さから云ってずいぶんの相違があると思った。彼は目分量でその距離を一間半|乃至《ないし》二間と鑑定した後で、もしこの下にも古い風呂場があるとすれば、段々が一つ家の中《うち》に幾層もあるはずだという事に気がついた。
崖の上には石蕗《つわ》があった。あいにくそこに朝日が射していないので、時々風に揺れる硬く光った葉の色が、いかにも寒そうに見えた。山茶花《さざんか》の花の散って行く様も湯壺《ゆつぼ》から眺められた。けれども景色は断片的であった。硝子戸の長さの許す二尺以外は、上下とも全く津田の眼に映らなかった。不可知な世界は無論平凡に違《ちがい》なかった。けれどもそれがなぜだか彼の好奇心を唆《そそ》った。すぐ崖の傍《そば》へ来て急に鳴き出したらしい鵯《ひよどり》も、声が聴《きこ》えるだけで姿の見えないのが物足りなかった。
しかしそれはほんのつけたりの物足りなさであった。実を云うと、津田は腹のうちで遥《はる》かそれ以上気にかかる事件を捏《こ》ね返《かえ》していたので、彼は風呂場へ下りた時からすでにある不足を暗々《あんあん》のうちに感じなければならなかった。明るい浴室に人影一つ見出《みいだ》さなかった彼は、万事君の跋扈《ばっこ》に任せるといった風に寂寞《せきばく》を極《きわ》めた建物の中に立って、廊下の左右に並んでいる小さい浴槽の戸を、念のため一々開けて見た。もっともこれはそのうちの一つの入口に、スリッパーが脱ぎ棄《す》ててあったのが、彼に或暗示を与えたので、それが機縁になって、彼を動かした所作《しょさ》に過ぎないとも云えば云えない事もなかった。だから順々に戸を開けた手の番が廻って来て、いよいよスリッパーの前に閉《た》て切《き》られた戸にかかった時、彼は急に躊躇《ちゅうちょ》した。彼は固《もと》より無心ではなかった。その上失礼という感じがどこかで手伝った。仕方なしに外部《そと》から耳を峙《そばだ》てたけれども、中は森《しん》としているので、それに勢《いきおい》を得た彼の手は、思い切ってがらりと戸を開ける事ができた。そうしてほかと同じように空虚な浴室が彼の前に見出された時に、まあよかったという感じと、何だつまらないという失望が一度に彼の胸に起った。
すでに裸になって、湯壺《ゆつぼ》の中に浸《つか》った後《あと》の彼には、この引続きから来る一種の予期が絶えず働らいた。彼は苦笑しながら、昨夕《ゆうべ》と今朝《けさ》の間に自分の経過した変化を比較した。昨夕の彼は丸髷《まるまげ》の女に驚ろかされるまではむしろ無邪気であった。今朝の彼はまだ誰も来ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じていた。
それは主《ぬし》のないスリッパーに唆《そそ》のかされた罪かも知れなかった。けれどもスリッパーがなぜ彼を唆のかしたかというと、寝起《ねおき》に横浜の女と番頭の噂《うわ》さに上《のぼ》った清子の消息を聴《き》かされたからであった。彼女はまだ起きていなかった。少くともまだ湯に入っていなかった。もし入るとすれば今入っているか、これから入りに来るかどっちかでなければならなかった。
鋭敏な彼の耳は、ふと誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。彼はすぐじゃぶじゃぶやる手を止《や》めた。すると足音は聴えなくなった。しかし気のせいかいったんとまったその足音が今度は逆に階段を上《のぼ》って行くように思われた。彼はその源因を想像した。他《ひと》の例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎ捨《す》てておいたのが悪くはなかったろうかと考えた。なぜそれを浴室の中まで穿《は》き込まなかったのだろうかという後悔さえ萌《きざ》した。
しばらくして彼はまた意外な足音を今度は浴槽《よくそう》の外側に聞いた。それは彼が石蕗《つわ》の花を眺めた後《あと》、鵯鳥《ひよどり》の声を聴《き》いた前であった。彼の想像はすぐ前後の足音を結びつけた。風呂場を避けた前の足音の主が、わざと外へ出たのだという解釈が容易に彼に与えられた。するとたちまち女の声がした。しかしそれは足音と全く別な方角から来た。下から見上げた外部の様子によって考えると、崖《がけ》の上は幾坪かの平地《ひらち》で、その平地を前に控えた一棟《ひとむね》の建物が、風呂場の方を向いて建てられているらしく思われた。何しろ声はそっちの見当から来た。そうしてその主は、たしかに先刻《さっき》散歩の帰りに番頭と清子の話をした女であった。
昨夕湯気を抜くために隙《す》かされた庇《ひさし》の下の硝子戸《ガラスど》が今日は閉《た》て切られているので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入らなかった。けれども語勢その他から推して、一事はたしかであった。彼女は崖《がけ》の上から崖の下へ向けて話しかけていた。だから順序を云えば、崖の下からも是非|受《う》け応《こた》えの挨拶《あいさつ》が出なければならないはずであった。ところが意外にもその方はまるで音沙汰《おとさた》なしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。しゃべる方はただ崖の上に限られていた。
その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上《のぼ》って行った。それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女の裾《すそ》が硝子戸の上部の方に少し現われた。そうしてすぐ消えた。津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様の翻《ひる》がえる様であった。彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。
百八十
室《へや》に帰って朝食《あさめし》の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」
「いいや、おおかたそうだろうと思っただけさ」
「よく当りましたね。ちとお遊びにいらっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」
「よっぽど長くいるのかい」
「ええもう十日ばかりになるでしょう」
「あれだね、義太夫をやるってえのは」
「ええ、よく御存じですね、もうお聴《き》きになりましたか」
「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」
彼が聴くがままに、二人についての知識を惜気《おしげ》もなく供給した下女は、それでも分も心得ていた。急所へ来るとわざと津田の問を外《はず》した。
「時にあの女の人はいったい何だね」
「奥さんですよ」
「本当の奥さんかね」
「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。「まさか嘘《うそ》の奥さんてのもないでしょう、なぜですか」
「なぜって、素人《しろうと》にしちゃあんまり粋過《いきす》ぎるじゃないか」
下女は答える代りに、突然清子を引合《ひきあい》に出した。
「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄《ひとがら》です」
間取《まどり》の関係から云って、清子の室《へや》は津田の後《うしろ》、二人づれの座敷は津田の前に当った。両方の中間に自分を見出《みいだ》した彼はようやく首肯《うなず》いた。
「するとちょうど真中辺《まんなかへん》だね、ここは」
真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。
「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」
「ええ御懇意です」
「元から?」
「さあどうですか、そこはよく存じませんが、――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。始終《しじゅう》行ったり来たりしていらっしゃいます、両方ともお閑《ひま》なもんですから。昨日《きのう》も公園へいっしょにお出かけでした」
津田は問題を取り逃がさないようにした。
「その奥さんはなぜ一人でいるんだね」
「少し身体《からだ》がお悪いんです」
「旦那《だんな》さんは」
「いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたが、すぐお帰りになりました」
「置《お》いてきぼりか、そりゃひどいな。それっきり来ないのかい」
「何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」
「退屈だろうね、奥さんは」
「ちと話しに行って、お上げになったらいかがです」
「話しに行ってもいいかね、後で聴いといてくれたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田はまた訊《き》いた。
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活《い》けになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」
「そうかい。本は?」
「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣《はんさ》にわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田はようやく気がついて、少し狼狽《あわて》たように話を外《そ》らせた。
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞《ふさ》がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」
「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」
先生というのは書の専門家であった。方々にかかっている額や看板でその落※[#「(肄−聿)+欠」、第3水準1−86−31]《らっかん》を覚えていた津田は「へええ」と云った。
「もう年寄だろうね」
「ええお爺《じい》さんです。こんなに白い髯《ひげ》を生やして」
下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に相応《ふさ》わしい髯の長さを形容して見せた。
「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」
「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」
書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女から聴《き》かされた時、津田は驚ろいて感心した。
「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人《しろうと》は半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」
この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。彼は暗《あん》にこの老先生の用向《ようむき》と自分の用向とを見較《みくら》べた。無事に苦しんで義太夫の稽古《けいこ》をするという浜の二人をさらにその傍《かたわら》に並べて見た。それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷に坐《すわ》って山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。
「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏
前へ
次へ
全75ページ中71ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング