行った。その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気がついた。
「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」
津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後《うしろ》を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上《あが》り口《くち》の電灯がぱっと消えた。津田は暗闇《くらやみ》の中で開けるらしい障子《しょうじ》の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍《そば》の小さな部屋で呼鈴《よびりん》の返しの音がけたたましく鳴った。
やがて遠い廊下をぱたぱた馳《か》けて来る足音が聴《き》こえた。彼はその足音の主《ぬし》を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室《へや》の在所《ありどころ》を教えて貰《もら》った。
百七十七
その晩の津田はよく眠れなかった。雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。それを離れる事のできない彼は疑った。雨が来たのだろうか、谿川《たにがわ》が軒の近くを流れているのだろうか。雨としては庇《ひさし》に響がないし、谿川としては勢《いきおい》が緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれより遥《はる》か重大な主題のために悩まされていた。
彼は室に帰ると、いつの間にか気を利《き》かせた下女の暖かそうに延べておいてくれた床を、わが座敷の真中に見出《みいだ》したので、すぐその中へ潜《もぐ》り込《こ》んだまま、偶然にも今自分が経過して来た冒険について思い耽《ふけ》ったのである。
彼はこの宵《よい》の自分を顧りみて、ほとんど夢中歩行者《ソムナンビュリスト》のような気がした。彼の行為は、目的《あて》もなく家中《うちじゅう》彷徨《うろつ》き廻ったと一般であった。ことに階子段《はしごだん》の下で、静中に渦《うず》を廻転させる水を見たり、突然|姿見《すがたみ》に映る気味の悪い自分の顔に出会ったりした時は、事後一時間と経《た》たない近距離から判断して見ても、たしかに常軌《じょうき》を逸した心理作用の支配を受けていた。常識に見捨てられた例《ためし》の少ない彼としては珍らしいこの気分は、今床の中に安臥する彼から見れば、恥ずべき状態に違《ちがい》なかった。しかし外聞が悪いという事をほかにして、なぜあんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明はできなかった。
それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に推《お》し移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。
「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」
彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。
「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」
彼は実際廊下をうろうろ歩行《ある》いているうちに、清子をどこかへふり落した。けれども自分のどこを歩いているか知らないものが、他《ひと》がどこにいるか知ろうはずはなかった。
「この見当《けんとう》だと心得てさえいたならば、ああ不意打《ふいうち》を食うんじゃなかったのに」
こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消して上《あが》り口《くち》の案内を閉塞《へいそく》した所作《しょさ》、たちまち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴《ベル》の音、これらのものを綜合《そうごう》して考えると、すべてが警戒であった。注意であった。そうして絶縁であった。
しかし彼女は驚ろいていた。彼よりも遥《はる》か余計に驚ろいていた。それは単に女だからとも云えた。彼には不意の裡《うち》に予期があり、彼女には突然の中《うち》にただ突然があるだけであったからとも云えた。けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。彼女はもっと複雑な過去を覿面《てきめん》に感じてはいないだろうか。
彼女は蒼《あお》くなった。彼女は硬くなった。津田はそこに望みを繋《つな》いだ。今の自分に都合《つごう》の好いようにそれを解釈してみた。それからまたその解釈を引繰返《ひっくりかえ》して、反対の側《がわ》からも眺めてみた。両方を眺め尽した次にはどっちが合理的だろうという批判をしなければならなくなった。その批判は材料不足のために、容易に纏《まと》まらなかった。纏ってもすぐ打ち崩《くず》された。一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。不思議にも彼の自信、卑下《ひげ》して用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚《おのぼれ》は、胸の中《うち》にあるような気がした。それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反対にいつでも頭の外から来るような心持がした。両方を公平に取扱かっているつもりでいながら、彼は常に親疎《しんそ》の区別をその間に置いていた。というよりも、遠近の差等が自然天然属性として二つのものに元から具《そな》わっているらしく見えた。結果は分明《ぶんみょう》であった。彼は叱《しか》りながら己惚《おのぼれ》の頭を撫《な》でた。耳を傾けながら、半鐘の音を忌《い》んだ。
かくして互いに追《おっ》つ追《お》われつしている彼の心に、静かな眠は来《き》ようとしても来られなかった。万事を明日《あす》に譲る覚悟をきめた彼は、幾度《いくたび》かそれを招き寄せようとして失敗《しくじ》ったあげく、右を向いたり、左を下にしたり、ただ寝返《ねがえ》りの数を重ねるだけであった。
彼は煙草へ火を点《つ》けようとして枕元にある燐寸《マッチ》を取った。その時|袖畳《そでだた》みにして下女が衣桁《いこう》へかけて行った※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《どてら》が眼に入《い》った。気がついて見ると、お延の鞄《かばん》へ入れてくれたのはそのままにして、先刻《さっき》宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入っていた。彼は病院を出る時、新調の※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍に対してお延に使ったお世辞《せじ》をたちまち思い出した。同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。
「どっちが好いか比べて御覧なさい」
※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍ははたして宿の方が上等であった。銘仙と糸織の区別は彼の眼にも一目瞭然《いちもくりょうぜん》であった。※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《どてら》を見較《みくら》べると共に、細君を前に置いて、内々心の中《うち》で考えた当時の事が再び意識の域上《いきじょう》に現われた。
「お延と清子」
独《ひと》りこう云った彼はたちまち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、その底から出るじいという音を聴《き》いたなり、すぐ夜具を頭から被《かぶ》った。
強《し》いて寝ようとする決心と努力は、その決心と努力が疲れ果ててどこかへ行ってしまった時に始めて酬《むく》いられた。彼はとうとう我知らず夢の中に落ち込んだ。
百七十八
朝早く男が来て雨戸を引く音のために、いったん破りかけられたその夢は、半醒半睡の間に、辛《かろ》うじて持続した。室《へや》の四角《よすみ》が寝ていられないほど明るくなって、外部《そと》に朝日の影が充《み》ち渡ると思う頃、始めて起き上った津田の瞼《まぶた》はまだ重かった。彼は楊枝《ようじ》を使いながら障子《しょうじ》を開けた。そうして昨夜来の魔境から今ようやく覚醒した人のような眼を放って、そこいらを見渡した。
彼の室の前にある庭は案外にも山里らしくなかった。不規則な池を人工的に拵《こしら》えて、その周囲に稚《わか》い松だの躑躅《つつじ》だのを普通の約束通り配置した景色は平凡というよりむしろ卑俗であった。彼の室に近い築山の間から、谿水《たにみず》を導いて小さな滝を池の中へ落している上に、高くはないけれども、一度に五六筋の柱を花火のように吹き上げる噴水まで添えてあった。昨夜《ゆうべ》彼の睡眠を悩ました細工の源《みなもと》を、苦笑しながら明らさまに見た時、彼の聯想《れんそう》はすぐこの水音以上に何倍か彼を苦しめた清子の方へ推《お》し移った。大根《おおね》を洗えばそれもこの噴水同様に殺風景なものかも知れない、いやもしそれがこの噴水同様に無意味なものであったらたまらないと彼は考えた。
彼が銜《くわ》え楊枝《ようじ》のまま懐手《ふところで》をして敷居の上にぼんやり立っていると、先刻《さっき》から高箒《たかぼうき》で庭の落葉を掃《は》いていた男が、彼の傍《そば》へ寄って来て丁寧に挨拶《あいさつ》をした。
「お早う、昨夜《さくや》はお疲れさまで」
「君だったかね、昨夕《ゆうべ》馬車へ乗ってここまでいっしょに来てくれたのは」
「へえ、お邪魔様で」
「なるほど君の云った通り閑静だね。そうしてむやみに広い家《うち》だね」
「いえ、御覧の通り平地《ひらち》の乏しい所でげすから、地ならしをしてはその上へ建て建てして、家が幾段にもなっておりますので、――廊下だけは仰せの通りむやみに広くって長いかも知れません」
「道理で。昨夕僕は風呂場へ行った帰りに迷児《まいご》になって弱ったよ」
「はあ、そりゃ」
二人がこんな会話を取り換《か》わせている間に、庭続の小山の上から男と女がこれも二人づれで下りて来た。黄葉《こうよう》と枯枝の隙間《すきま》を動いてくる彼らの路《みち》は、稲妻形《いなずまがた》に林の裡《うち》を抜けられるように、また比較的急な勾配《こうばい》を楽に上《のぼ》られるように、作ってあるので、ついそこに見えている彼らの姿もなかなか庭先まで出るのに暇がかかった。それでも手代《てだい》はじっとして彼らを待っていなかった。たちまち津田を放《ほう》り出した現金な彼は、すぐ岡の裾《すそ》まで駈け出して行って、下から彼らを迎いに来たような挨拶《あいさつ》を与えた。
津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。女は昨夕《ゆうべ》艶《なま》めかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人に違《ちがい》なかった。風呂場で彼を驚ろかした大きな髷《まげ》をいつの間にか崩《くず》して、尋常の束髪に結《ゆ》い更《か》えたので、彼はつい同じ人と気がつかずにいた。彼はさらに声を聴《き》いただけで顔を知らなかった伴《つれ》の男の方を、よそながらの初対面といった風に、女と眺め比べた。短かく刈り込んだ当世風の髭《ひげ》を鼻の下に生やしたその男は、なるほど風呂番の云った通り、どこかに商人らしい面影《おもかげ》を宿していた。津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫を憶い出した。堀庄太郎、もう少し略して堀の庄さん、もっと詰《つ》めて当人のしばしば用いる堀庄《ほりしょう》という名前が、いかにも妹婿の様子を代表しているごとく、この男の名前もきっとその髭を虐殺するように町人染《ちょうにんじ》みていはしまいかと思われた。瞥見《べっけん》のついでに纏《まと》められた津田の想像はここにとどまらなかった。彼はもう一歩皮肉なところまで切り込んで、彼らがはたして本当の夫婦であるかないかをさえ疑問の中《うち》に置いた。したがって早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼らは、津田にとっての違例な現象にほかならなかった。彼は楊枝で歯を磨《こす》りながらまだ元の所に立っていた。彼がよそ見をしているにもかかわらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聴えた。
女は番頭に訊《き》いた。
「今日は別館の奥さんはどうかなすって」
番頭は答えた。
「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」
「別に何って事もないんですけれどもね、いつでも朝風呂場でお目にかかるのに、今日はいらっしゃらなかったから」
「はあさようで――、ことによるとまだお休みかも知れません」
「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ、朝お風呂に行く時の」
「へえ、なるほど」
「それに今朝《けさ》ごいっしょ
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