に毎晩義太夫を習っているんだとか、宅《うち》のお上《かみ》さんは長唄《ながうた》が上手だとか、いろいろの問をかけると共に、いろいろの知識を供給した。聴かないでもいい事まで聴かされた津田には、勝さんの触れないものが、たった一つしかないように思われた。そうしてその触れないものは取《とり》も直《なお》さず清子という名前であった。偶然から来たこの結果には、津田にとって多少の物足らなさが含まれていた。もちろん津田の方でも水を向ける用意もなかった。そんな暇のないうちに、勝さんはさっさとしゃべるだけしゃべって、洗う方を切り上げてしまった。
「どうぞごゆっくり」
こう云って出て行った勝さんの後影を見送った津田にも、もうゆっくりする必要がなかった。彼はすぐ身体を拭いて硝子戸《ガラスど》の外へ出た。しかし濡手拭《ぬれてぬぐい》をぶら下げて、風呂場の階子段《はしごだん》を上《あが》って、そこにある洗面所と姿見《すがたみ》の前を通り越して、廊下を一曲り曲ったと思ったら、はたしてどこへ帰っていいのか解らなくなった。
百七十五
最初の彼はほとんど気がつかずに歩いた。これが先刻《さっき》下女に案内されて通った路《みち》なのだろうかと疑う心さえ、淡い夢のように、彼の記憶を暈《ぼか》すだけであった。しかし廊下を踏んだ長さに比較して、なかなか自分の室《へや》らしいものの前に出られなかった時に、彼はふと立ちどまった。
「はてな、もっと後《あと》かしら。もう少し先かしら」
電灯で照らされた廊下は明るかった。どっちの方角でも行こうとすれば勝手に行かれた。けれども人の足音はどこにも聴《きこ》えなかった。用事で往来《ゆきき》をする下女の姿も見えなかった。手拭と石鹸《シャボン》をそこへ置いた津田は、宅《うち》の書斎でお延を呼ぶ時のように手を鳴らして見た。けれども返事はどこからも響いて来なかった。不案内な彼は、第一下女の溜《たま》りのある見当を知らなかった。個人の住宅とほとんど区別のつかない、植込《うえこみ》の突当りにある玄関から上ったので、勝手口、台所、帳場などの所在《ありか》は、すべて彼にとっての秘密と何の択《えら》ぶところもなかった。
手を鳴らす所作《しょさ》を一二度繰り返して見て、誰も応ずるもののないのを確かめた時、彼は苦笑しながらまた石鹸と手拭を取り上げた。これも一興だという気になった。ぐるぐる廻っているうちには、いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興《すいきょう》も手伝った。彼は生れて以来旅館における始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。
廊下はすぐ尽きた。そこから筋違《すじかい》に二三度|上《あが》るとまた洗面所があった。きらきらする白い金盥《かなだらい》が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓《せん》の口から流れる山水《やまみず》だか清水《しみず》だか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、縁《ふち》を溢《あふ》れる水晶《すいしょう》のような薄い水の幕の綺麗《きれい》に滑《すべ》って行く様《さま》が鮮《あざ》やかに眺められた。金盥の中の水は後《あと》から押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪《しんとう》を感ずるもののごとくに揺れた。
水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所《おりばしょ》を彼に忘れさせた。彼はただもったいないと思った。手を出して栓《せん》を締めておいてやろうかと考えた時、ようやく自分の迂濶《うかつ》さに気がついた。それと同時に、白い瀬戸張《せとばり》のなかで、大きくなったり小さくなったりする不定な渦《うず》が、妙に彼を刺戟《しげき》した。
あたりは静かであった。膳《ぜん》に向った時下女の云った通りであった。というよりも事実は彼女の言葉を一々|首肯《うけが》って、おおかたこのくらいだろうと暗《あん》に想像したよりも遥《はる》かに静かであった。客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人がどこにいるのかと疑いたくなるくらいであった。その静かさのうちに電灯は隈《くま》なく照り渡った。けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦《うず》らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。
彼はすぐ水から視線を外《そら》した。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据《す》えた。しかしそれは洗面所の横に懸《か》けられた大きな鏡に映る自分の影像《イメジ》に過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具《そな》えつけてあるものぐらいの尺はあった。そうして位地《いち》の都合上《つごうじょう》、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼《あお》かった。彼にはその意味が解《げ》せなかった。久しく刈込《かりこみ》を怠った髪は乱れたままで頭に生《お》い被《かぶ》さっていた。風呂で濡《ぬ》らしたばかりの色が漆《うるし》のように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。
彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理《きめ》も男としてはもったいないくらい濃《こまや》かに出来上っていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。凄《すご》くなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛《くし》を取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。
しかし彼の所作《しょさ》は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分の室《へや》を探すもとの我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段《はしごだん》を見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈《がんじょう》にできていた。第三に尋常のものと違って、擬《まが》いの西洋館らしく、一面に仮漆《ニス》が塗《かか》っていた。
胡乱《うろん》なうちにも、この階子段だけはけっして先刻《さっき》下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。そこを上《のぼ》っても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍|後戻《あともど》りをする覚悟で、鏡から離れた身体《からだ》を横へ向け直した。
百七十六
するとその二階にある一室の障子《しょうじ》を開けて、開けた後《あと》をまた閉《た》て切《き》る音が聴《きこ》えた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切《はっきり》しているので、彼はすぐその確的《たしか》さの度合から押して、室の距離を定める事ができた。
下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何の異《こと》なるところもなかった。そこには広い板の間があった。目の届かない幅は問題外として、突き当りを遮《さえ》ぎる壁を目標《めやす》に置いて、大凡《おおよそ》の見当をつけると、畳一枚を竪《たて》に敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段を上《のぼ》らない津田の想像で判断するよりほかに途《みち》はないとして、今聴えた障子の音の出所《でどころ》は、一番階段に近い室、すなわち下《し》たから見える壁のすぐ後《うしろ》に違なかった。
ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟《しげき》に気を奪《と》られていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇《よみがえ》った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児《まご》ついている今の自分に付着する間抜《まぬけ》さ加減《かげん》を他《ひと》に見せるのが厭《いや》だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己《おの》れの醜くさを人前に曝《さら》すのが恥ずかしかったからでもある。
けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩《ほ》を回《めぐ》らそうとした刹那《せつな》に彼は気がついた。
「ことによると下女かも知れない」
こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超《こ》える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。
「誰でもいい、来たら方角を教えて貰《もら》おう」
彼は決心して姿見《すがたみ》の横に立ったまま、階子段《はしごだん》の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵《かかと》へ跳《は》ね上る上靴《スリッパー》の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。
「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」
不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚《とら》われた津田の足はたちまち立《た》ち竦《すく》んだ。眼は動かなかった。
同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々《のちのち》まで自分の心に伝えた。
彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。無心《むしん》が有心《ゆうしん》に変るまでにはある時がかかった。驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後《あと》で、彼女は始めて棒立になった。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。
彼女は普通の湯治客《とうじきゃく》のする通り、寝しなに一風呂入って温《あたた》まるつもりと見えて、手に小型のタウエルを提《さ》げていた。それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入《シャボンいれ》を裸《はだか》のまま持っていた。棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那《せつな》の光景を辿《たど》るたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。
彼女の姿は先刻《さっき》風呂場で会った婦人ほど縦《ほしい》ままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろの縞《しま》が綺麗《きれい》に通っている派手《はで》な伊達巻《だてまき》を、むしろずるずるに巻きつけたままであった。寝巻《ねまき》の下に重ねた長襦袢《ながじゅばん》の色が、薄い羅紗製《らしゃせい》の上靴《スリッパー》を突《つっ》かけた素足《すあし》の甲を被《おお》っていた。
清子の身体《からだ》が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白《あおじろ》く変って
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