の糸が急に数を揃《そろ》えて、見渡す限の空間を一度に充《み》たして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層|凄《すさ》まじく感ぜられた。
 雨の上には濃い雲があった。雨の横にも限界の遮《さえ》ぎられない限りは雲があった。雲と雨との隙間《すきま》なく連続した広い空間が、津田の視覚をいっぱいに冒《おか》した時、彼は荒涼《こうりょう》なる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較《くら》べた。身体《からだ》を安逸の境に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝《つ》いて外部《そと》へ出なければならない午後の心持を想像しながら、独《ひと》り肩を竦《すく》めた。すると隣りに腰をかけて、ぽつりぽつりと窓硝子《まどガラス》を打つたびに、点滴の珠《たま》を表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好《しじゅうがっこう》の男が少し上半身を前へ屈《かが》めて、向側《むこうがわ》に胡坐《あぐら》を掻《か》いている伴侶《つれ》に話しかけた。しかし雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。
「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の路《みち》が壊れやしないかね」
 彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。
「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」
 これが相手の答であった。相手というのは羅紗《らしゃ》の道行《みちゆき》を着た六十恰好《ろくじゅうがっこう》の爺《じい》さんであった。頭には唐物屋《とうぶつや》を探《さが》しても見当りそうもない変な鍔《つば》なしの帽子を被《かぶ》っていた。煙草入《たばこいれ》だの、唐桟《とうざん》の小片《こぎれ》だの、古代更紗《こだいさらさ》だの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋《ふくろものや》へでも行って、わざわざ注文しなければ、とうてい頭へ載せる事のできそうもないその帽子の主人は、彼の言葉|遣《づか》いで東京生れの証拠を充分に挙げていた。津田は服装に似合わない思いのほか濶達《かったつ》なこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、どっちかというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。
 この挨拶《あいさつ》のうちに偶然使用された軽便という語は、津田にとってたしかに一種の暗示であった。彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思った津田の耳は、彼らの談話に対して急に鋭敏になった。転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜《ずぬ》けた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。
「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」
 中折《なかおれ》に駱駝《らくだ》の外套《がいとう》を着た落ちつきのある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。
「何たかが雨だあね。濡《ぬ》れると思やあ、何でもねえ」
「だが荷物が厄介《やっかい》だよ。あの軽便へ雨曝《あまざら》しのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」
「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室《へや》の中へ入れて貰う事にしよう」
 二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんがまた云った。
「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽缶《かま》へ穴が開《あ》いて動《いご》けなくなる汽車なんだから、全くのところ心細いにゃ違ない」
「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」
「なにあっちから来る奴《やつ》を山の中ほどで待ち合せてさ。その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか」
「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」
「違《ちげ》えねえ、こっちで取り上げりゃ、向うは困らあ」
「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他《ひと》を救って、自分は立往生って訳もなかろう」
「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫《ふる》えちまわあね」
 津田の推測はだんだんたしかになって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委《まか》せようとするその軽便が、彼らのいう通り乱暴至極のものならば、この雨中どんな災難に会わないとも限らなかった。けれどもそこには東京ものの持って生れた誇張というものがあった。そんなに不完全なものですかと訊いてみようとしてそこに気のついた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問をかける手数《てすう》を省《はぶ》いた。そうして今度は清子とその軽便とを聯結《れんけつ》して「女一人でさえ楽々往来ができる所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。

        百六十九

 汽車が目的の停車場《ステーション》に着く少し前から、三人によって気遣《きづか》われた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収《おさ》まり際《ぎわ》の空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側《がわ》に向って、ずんずん飛んで行った。そうして後《あと》から後からと、あたかも前に行くものを追《おっ》かけるように、隙間《すきま》なく詰《つ》め寄せた。そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。就中《なかんずく》一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配《けはい》を示した。
 思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻《さっき》会った二人伴《ふたりづれ》の男を見出した。はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。けれども彼らの雨曝《あまざら》しになるのを苦《く》に病んだほどの大嵩《おおがさ》なものはどこにも見当らなかった。のみならず、爺《じい》さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊《き》いてみるんだ。だが大体《たいてい》間違《まちがい》はないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」
 津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。
「あなたも湯治場《とうじば》へいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
 彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶《つれ》を顧みた。中折《なかおれ》の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
 この天眼通《てんがんつう》に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁《かいかつ》な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体《からだ》一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向《あつらえむき》だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋《がっさいぶくろ》とこの大将のあの鞄《かばん》を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」
 大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
 電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝《こ》らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食《ちゅうじき》を認《した》ためた。時間から云って、平常より一時間以上も後《おく》れていたその昼食は、膳《ぜん》を貪《むさ》ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼《せま》っていた。彼は箸《はし》を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
 基点に当る停車場《ステーション》は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭《つり》を受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏《はさみ》を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻《さっき》の二人連れと顔を合せた。
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」
 爺《じい》さんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝《ひざ》かけを敷く余地を拵《こしら》えてくれた。
「今日は空《す》いてて結構です」
 爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八|二月《ふたつき》に渉《わた》って、この線路に集ってくる湯治客《とうじきゃく》の、どんなに雑沓《ざっとう》するかをさも面白そうに例の調子で話して聴《き》かせた後《あと》で、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴《つ》れてくるのは実際罪だよ。尻《しり》が大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨《すし》のように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」
 彼は自分の傍《そば》に腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。

        百七十

 軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際《さい》などに、老人は急に彼を夢の裡《うち》から叩《たた》き起した。
「まだ仮橋《かりばし》のままでやってるんだから、呑気《のんき》なものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」
 本式の橋が去年の出水《でみず》で押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵《ののし》った後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構《ひとかまえ》の家を指《さ》して、また津田の注意を誘い出そうとした。
「あの家《うち》も去年波で浚《さら》われちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」
「ここいらで一夏休むと、だいぶ応《こた》えるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着《おうちゃく》をきめ込みやがって、掛《か》けかえねえんでさあ」
 津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切《とぎ》れ目《め》には、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。
 彼の頭の中は纏《まと》まらない断片的な映像《イメジ》のために絶えず往来された。その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場《ステーション》まで来てくれた
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