吉川の書生の姿も動いた。彼の車室内へ運んでくれた果物《くだもの》の籃《かご》もあった。その葢《ふた》を開けて、二人の伴侶《つれ》に夫人の贈物を配《わか》とうかという意志も働いた。その所作《しょさ》から起る手数《てかず》だの煩《わずら》わしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山《ぎょうさん》な挨拶《あいさつ》も鮮《あざ》やかに描き出された。すると爺さんも中折《なかおれ》も急に消えて、その代り肥った吉川夫人の影法師が頭の闥《たつ》を排してつかつか這入《はい》って来た。連想はすぐこれから行こうとする湯治場《とうじば》の中心点になっている清子に飛び移った。彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。
汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている勾配《こうばい》の急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆《か》けるかと思うと、いつの間にか山と山の間に割り込んで、幾度《いくたび》も上《あが》ったり下《さが》ったりした。その山の多くは隙間《すきま》なく植付けられた蜜柑《みかん》の色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々《るいるい》と点綴《てんてつ》していた。
「あいつは旨《うま》そうだね」
「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど綺麗《きれい》だよ」
比較的|嶮《けわ》しい曲りくねった坂を一つ上った時、車はたちまちとまった。停車場《ステーション》でもないそこに見えるものは、多少の霜《しも》に彩《いろ》どられた雑木《ぞうき》だけであった。
「どうしたんだ」
爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。
「脱線です」
この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折《なかおれ》を見た。
「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」
急に予言者らしい口吻《こうふん》を洩《も》らした彼は、いよいよ自分の駄弁を弄《ろう》する時機が来たと云わぬばかりにはしゃぎ出した。
「どうせ家《うち》を出る時に、水盃《みずさかずき》は済まして来たんだから、覚悟はとうからきめてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶《べんけい》の立往生《たちおうじょう》は御免|蒙《こうむ》りたいからね。といっていつまでこうやって待ってたって、なかなか元へ戻してくれそうもなしと。何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか」
爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。津田も独《ひと》り室内に坐《すわ》っている訳に行かなくなったので、みんなといっしょに地面の上へ降り立った。そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後《うしろ》にして、うんうん車を押した。
「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」
車はまた引き戻された。それからまた前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。
「また後《おく》れちまったよ、大将、お蔭《かげ》で」
「誰のお蔭でさ」
「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」
「せっかく遊びに来た甲斐《かい》がないだろう」
「全くだ」
津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場《ステーション》で、この元気の好い老人と別れて、一人|薄暮《ゆうぐれ》の空気の中に出た。
百七十一
靄《もや》とも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞《せきばく》たる夢であった。自分の四辺《しへん》にちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横《よこた》わる大きな闇《やみ》の姿を見較《みくら》べた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿《たど》ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面《きちょうめん》に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那《せつな》から、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟《たた》られているのだ。そうして今ちょうどその夢を追《おっ》かけようとしている途中なのだ。顧《かえり》みると過去から持ち越したこの一条《ひとすじ》の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。したがって夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。しかしそれははたして事実だろうか。自分の夢ははたして綺麗に拭《ぬぐ》い去られるだろうか。自分ははたしてそれだけの信念をもって、この夢のようにぼんやりした寒村《かんそん》の中に立っているのだろうか。眼に入《い》る低い軒、近頃|砂利《じゃり》を敷いたらしい狭い道路、貧しい電灯の影、傾《かた》むきかかった藁屋根《わらやね》、黄色い幌《ほろ》を下《おろ》した一頭立《いっとうだて》の馬車、――新とも旧とも片のつけられないこの一塊《ひとかたまり》の配合を、なおの事夢らしく粧《よそお》っている肌寒《はださむ》と夜寒《よさむ》と闇暗《くらやみ》、――すべて朦朧《もうろう》たる事実から受けるこの感じは、自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱《だ》いてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。畢竟《ひっきょう》馬鹿だから? いよいよ馬鹿と事がきまりさえすれば、ここからでも引き返せるんだが」
この感想は一度に来た。半分《はんぷん》とかからないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具《そな》えて、抱き合うように彼の頭の中を通過した。しかしそれから後《あと》の彼はもう自分の主人公ではなかった。どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。一分《いっぷん》の猶予《ゆうよ》なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊《き》いたり、馬車に乗るか俥《くるま》にするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌《あいきょう》さえ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縦《そうじゅう》して退《の》けた。
彼はやがて否応《いやおう》なしにズックの幌《ほろ》を下《おろ》した馬車の上へ乗せられた。そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻《さっき》の若い男を見出すべく驚ろかされた。
「君もいっしょに行くのかい」
「へえ、お邪魔でも、どうか」
若い男は津田の目指《めざ》している宿屋の手代《てだい》であった。
「ここに旗が立っています」
彼は首を曲げて御者台《ぎょしゃだい》の隅《すみ》に挿《さ》し込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。彼は首を縮めて外套《がいとう》の襟《えり》を立てた。
「夜中《やちゅう》はもうだいぶお寒くなりました」
御者台《ぎょしゃだい》を背中に背負《しょ》ってる手代は、位地《いち》の関係から少しも風を受けないので、この云《い》い草《ぐさ》は何となく小賢《こざか》しく津田の耳に響いた。
道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の境目《さかいめ》には小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝《さら》して、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。手代もその方が便利だと見えて、強《し》いて向うから口を利《き》こうともしなかった。
すると突然津田の心が揺《うご》いた。
「お客はたくさんいるかい」
「へえありがとう、お蔭《かげ》さまで」
「何人《なんにん》ぐらい」
何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八|二月《ふたつき》ですな、繁昌《はんじょう》するのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」
「じゃ今がちょうど閑《ひま》な時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」
「うんまあそうだ」
清子の事を訊《き》く目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞《つか》えた。彼は気がさした。彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上|後《あと》で面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の背に倚《よ》りかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。
百七十二
馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾《すそ》をぐるりと廻り込んだ。見ると反対の側《がわ》にも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍《みちばた》を塞《ふさ》いでいた。台上《だいうえ》から飛び下りた御者《ぎょしゃ》はすぐ馬の口を取った。
一方には空を凌《しの》ぐほどの高い樹《き》が聳《そび》えていた。星月夜《ほしづきよ》の光に映る物凄《ものすご》い影から判断すると古松《こしょう》らしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍《ほんたん》の音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時《ふじ》の一転化を与えた。彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」
不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以来一年近く経《た》つ今日《こんにち》まで、いまだこの女の記憶を失《な》くした覚《おぼえ》がなかった。こうして夜路《よみち》を馬車に揺られて行くのも、有体《ありてい》に云えば、その人の影を一図《いちず》に追《おっ》かけている所作《しょさ》に違《ちがい》なかった。御者は先刻《さっき》から時間の遅くなるのを恐れるごとく、止《よ》せばいいと思うのに、濫《みだ》りなる鞭《むち》を鳴らして、しきりに痩馬《やせうま》の尻《しり》を打った。失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐《あわ》れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。吉川夫人? いや、そう一概《いちがい》に断言する訳には行かなかった。ではやっぱり彼自身? この点で精確な解決をつける事を好まなかった津田は、問題をそこで投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓《たに》の存在を憶《おも》い出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後《あと》を跟《つ》けて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」
冷たい山間《やまあい》の空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑《の》み尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。ぞっとした。
御者《ぎょしゃ》は馬の轡《くつわ》を取ったなり、白い泡《あわ》を岩角に吹き散らして鳴
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