切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至《ないし》この手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」
「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るにきまってるじゃないか」
「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」
 こう云った小林は、手紙を隠袋《ポケット》へしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。
「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」
 彼はこう云って原の方を見た。

        百六十六

 小林の所作《しょさ》は津田にとって全くの意外であった。突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向って躍《おど》った。憎悪《ぞうお》の電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体《からだ》を通過した。
 同時に聡明な彼の頭に一種の疑《うたがい》が閃《ひら》めいた。
「此奴《こいつ》ら二人は共謀《ぐる》になって先刻《さっき》からおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」
 こう思うのと、大通りの角で立談《たちばなし》をしていた二人の姿と、ここへ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その後《ご》三人の間に起った談話の遣取《やりとり》とが、どれが原因ともどれが結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火《しかけはなび》のようにくるくると廻転した。彼は白い食卓布《テーブルクロース》の上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。
「これがこの摺《す》れッ枯《か》らしの拵《こしら》え上げた狂言の落所《おち》だったのか。馬鹿奴《ばかめ》、そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」
 彼は傷《きずつ》けられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切《まくぎれ》に一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、旨《うま》くどさりと引繰《ひっく》り返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。
 外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした後《あと》の彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。そのわくわくがいつの間《ま》にか狼狽《ろうばい》の姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。
 この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着《ほうちゃく》した。それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。そこには驚ろきと喜びがあった。一種の飢渇《きかつ》があった。掴《つか》みかかろうとする慾望の力があった。そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々|真《しん》その物の発現であった。作りもの、拵《こしら》え事、馴《な》れ合《あ》いの狂言とは、どうしても受け取れなかった。少くとも津田にはそうとしか思えなかった。
 その上津田のこの判断を確めるに足る事実が後《あと》から継《つ》いで起った。原はそれほど欲しそうな紙幣《さつ》へ手を出さなかった。と云って断然小林の親切を斥《しり》ぞける勇気も示さなかった。出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔つきで読まれた。もしこの蒼白《あおじろ》い青年が、ついに紙幣《さつ》の方へ手を出さないとすると、小林の拵《こしら》えたせっかくの狂言も半分はぶち壊《こわ》しになる訳であった。もしまた小林がいったん隠袋《ポケット》から出した紙幣を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再びもとへ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。どっちにしても自分の体面を繕《つくろ》うのには便宜《べんぎ》な方向へ発展して行きそうなので、そこに一縷《いちる》の望を抱《いだ》いた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。
 やがて二人の間に問答が起った。
「なぜ取らないんだ、原君」
「でもあんまり御気の毒ですから」
「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうもありがとう」
「君の前に坐《すわ》ってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」
「はあ」
 原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰《もら》ったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」
「じゃなおどうも……」
「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう論理《ロジック》になるかしら」
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗《あぶらあせ》に対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財《じょうざい》だ。拾ったものが功徳《くどく》を受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」
 忌々《いまいま》しい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。鷹揚《おうよう》な彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上|体裁《ていさい》の好い結末をつけるのに充分であった。彼は醜陋《しゅうろう》に見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。
「そうだね。それが一番いいだろう」
 小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再びもとの隠袋《ポケット》へ収める時、彼は津田に云った。
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」
 表へ出た三人は濠端《ほりばた》へ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜《ほしづきよ》を仰いだ。

        百六十七

 間《ま》もなく三人は離れ離れになった。
「じゃ失敬、僕は停車場《ステーション》へ送って行かないよ」
「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」
「朝鮮でも台湾でも御免だ」
「情合《じょうあい》のない事|夥《おびた》だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞《いとまごい》に行くよ、いいかい」
「もうたくさんだ、来てくれなくっても」
「いや行く。でないと何だか気がすまないから」
「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日《あした》から旅行するんだから」
「旅行? どこへ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、洒落《しゃれ》てるな」
「僕に云わせると、これも余裕の賜物《たまもの》だ。僕は君と違って飽《あ》くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」
「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発《けいはつ》されるよりも、事実その物に戒飭《かいしょく》される方が、遥《はる》かに覿面《てきめん》で切実でいいだろう」
 これが別れる時二人の間に起った問答であった。しかしそれは宵《よい》から持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。これで幾分か溜飲《りゅういん》が下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。彼は理非の如何《いかん》に関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄《す》てなければならなかった。一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。
 明《あく》る朝《あさ》は風が吹いた。その風が疎《まば》らな雨の糸を筋違《すじかい》に地面の上へ運んで来た。
「厄介《やっかい》だな」
 時間通りに起きた津田は、縁鼻《えんばな》から空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。
「ことによると、お午《ひる》ぐらいから晴れるかも知れないわね」
 お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日|後《おく》れると一日|徒為《むだ》になるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」
「おれもそのつもりだ」
 冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極《とりきめ》は、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》から自分の衣裳《いしょう》を取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気がついた。
「お前は行かないでもいいよ」
「なぜ」
「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」
「ちっとも」
 お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。
「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽《こっけい》だからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜《ゆうべ》断っちまったくらいだ」
「そう、でもあたし宅《うち》にいたって、何にもする事がないんですもの」
「遊んでおいでよ。構わないから」
 お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人|俥《くるま》を駆って宅を出る事ができた。
 周囲の混雑と対照を形成《かたちづく》る雨の停車場《ステーション》の佗《わび》しい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符《ちゅうとうきっぷ》を、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶《あいさつ》をした。
「あいにくなお天気で」
 それはこの間始めて見た吉川の書生であった。取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。
「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」
「いいえ、ちょっとお見送りに」
「だからどなたを」
 書生は弱らせられたような様子をした。
「実は奥さまが、今日は少し差支《さしつか》えがあるから、これを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました」
 書生は手に持った果物《くだもの》の籃《かご》を津田に示した。
「いやそりゃどうも、恐れ入りました」
 津田はすぐその籃を受け取ろうとした。しかし書生は渡さなかった。
「いえ私が列車の中まで持って参ります」
 汽車が出る時、黙って丁寧に会釈《えしゃく》をした書生に、「どうぞ宜《よろ》しく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅に、ゆっくりと腰をおろしながら、「やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ」と思った。

        百六十八

 お延の気を利かして外套《がいとう》の隠袋《かくし》へ入れてくれた新聞を津田が取り出して、いつもより念入りに眼を通している頃に、窓外《そうがい》の空模様はだんだん悪くなって来た。先刻《さっき》まで疎《まば》らに眺められた雨
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