持がした。
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」
「だから吝な事を云うなと、先刻《さっき》から云ってるじゃないか」
 小林は右の手で背広《せびろ》の右前を掴《つか》んで、左の手を隠袋《ポケット》の中へ入れた。彼は暗闇《くらやみ》で物を探《さぐ》るように、しばらく入れた手を、背広の裏側で動かしながら、その間|始終《しじゅう》眼を津田の顔へぴったり付けていた。すると急に突飛な光景《シーン》が、津田の頭の中に描き出された。同時に変な妄想《もうぞう》が、今呑んでいる煙草の煙のように、淡く彼の心を掠《かす》めて過ぎた。
「此奴《こいつ》は懐《ふところ》から短銃《ピストル》を出すんじゃないだろうか。そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら」
 芝居じみた一刹那《いっせつな》が彼の予感を微《かす》かに揺《ゆす》ぶった時、彼の神経の末梢《まっしょう》は、眼に見えない風に弄《なぶ》られる細い小枝のように顫動《せんどう》した。それと共に、妄《みだ》りに自分で拵《こしら》えたこの一場《いちじょう》の架空劇をよそ目に見て、その荒誕《こうたん》を冷笑《せせらわら》う理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。
「何を探しているんだ」
「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多《めった》に君の前へは出されないんだ」
「間違えて先刻《さっき》放《ほう》り込んだ札《さつ》でも出すと、厄介だろう」
「なに札は大丈夫だ。ほかの紙片《かみぎれ》と違って活きてるから。こうやって、手で障《さわ》って見るとすぐ分るよ。隠袋《ポケット》の中で、ぴちぴち跳《は》ねてる」
 小林は減らず口を利《き》きながら、わざと空《むな》しい手を出した。
「おやないぞ。変だな」
 彼は左胸部にある表隠袋《おもてかくし》へ再び右の手を突き込んだ。しかしそこから彼の撮《つま》み出したものは皺《しわ》だらけになった薄汚ない手帛《ハンケチ》だけであった。
「何だ手品《てづま》でも使う気なのか、その手帛で」
 小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。真面目《まじめ》な顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩《たた》いた後で、いきなり云った。
「うんここにあった」
 彼の洋袴《ズボン》の隠袋から引き摺《ず》り出したものは、一通の手紙であった。
「実は此奴《こいつ》を君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、ちょっと読んでくれ。何|訳《わけ》ゃないやね、少し長いけれども」
 封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。

        百六十四

 ペンで原稿紙へ書きなぐるように認《したた》められたその手紙は、長さから云っても、無論普通の倍以上あった。のみならず宛名《あてな》は小林に違なかったけれども、差出人は津田の見た事も聴《き》いた事もない全く未知の人であった。津田は封筒の裏表を読んだ後で、それがはたして自分に何の関係があるのだろうと思った。けれども冷やかな無関心の傍《かたわら》に起った一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘った。封筒から引き抜いた十行二十字詰の罫紙《けいし》の上へ眼を落した彼は一気に読み下した。
「僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。あなたは定めて飽《あき》っぽいと思うでしょう、しかしこれはあなたと僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。またかと云わずに、まあ僕の訴えを聞いて下さい。女ばかりで夜《よる》が不用心《ぶようじん》だから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番《るすばん》をしてくれ、小説が書きたければ自由に書くがいい、図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい、午後は画《え》を習いに行くがいい。今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れてやる、家《うち》の始末は心配するな、転居の金は出してやる。――僕はこんなありがたい条件に誘惑されたのです。もっとも一から十まで当《あて》にした訳でもないんですが、その何割かは本当に違いないと思い込んだのです。ところが来て見ると、本当は一つもないんです、頭から尻《しり》まで嘘の皮なんです。叔父は東京にいる方が多いばかりか、僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。叔父は僕の事を「宅《うち》の書生」といいます、しかも客の前でです、僕のいる前でです。こんな訳で酒一合の使から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になってしまうのです。金はまだ一銭も貰ったことがありません。僕の穿《は》いていた一円の下駄が割れたら十二銭のやつを買って穿かせました。叔父は明日《あした》金をやると云って、僕の家族を姉の所へ転居させたのですが、越してしまったら、金の事は噫《おくび》にも出さないので、僕は帰る宅さえなくなりました。
 叔父の仕事はまるで山です。金なんか少しもないのです。そうして彼ら夫婦は極《きわ》めて冷やかな極めて吝嗇《りんしょく》な人達です。だから来た当座僕は空腹に堪えかねて、三日に一遍ぐらい姉の家《うち》へ帰って飯を食わして貰いました。兵糧《ひょうろう》が尽きて焼芋《やきいも》や馬鈴薯《じゃがいも》で間に合せていたこともあります。もっともこれは僕だけです。叔母は極めて感じの悪い女です。万事が打算的で、体裁《ていさい》ばかりで、いやにこせこせ突ッ付き廻したがるんで、僕はちくちく刺されどうしに刺されているんです。叔父は金のないくせに酒だけは飲みます。そうして田舎《いなか》へ行けば殿様だなどと云って威張るんです。しかし裏側へ入ってみると驚ろく事ばかりです。訴訟事件さえたくさん起っているくらいです。出発のたびに汽車賃がなくって、質屋へ駈けつけたり、姉の家へ行って、苦しいところを算段して来てやったりしていますが、叔父の方じゃ、僕の食費と差引にする気か何かで澄ましているのです。
 叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持《くいぶち》でも入れるものとでも思ってるんでしょう、僕がペンを持っていると、そんなにして書いたものはいったいどうなるの、なんて当擦《あてこす》りを云います。新聞の職業案内欄に出ている「事務員募集」の広告を突きつけて謎《なぞ》をかけたりします。
 こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しにここへ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。僕は変に考えさせられるのです。全く形をなさないこの家の奇怪な生活と、変幻|窮《きわま》りなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも見ているような気分になって、僕の頭に祟《たた》ってくるんです。それを他《ひと》に話したって、とうてい通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り巻かれているとしか考えられないので、なお心細くなるのです、そうして時々は気が狂いそうになるのです。というよりももう気が狂っているのではないかしらと疑がい出すと、たまらなく恐《こわ》くなって来るのです。土の牢の中で苦しんでいる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないような気がします。何となれば、手を挙げても足を動かしても、四方は真黒だからです。いくら訴えても、厚い冷たい壁が僕の声を遮《さえ》ぎって世の中へ聴えさせないようにするからです。今の僕は天下にたった一人です。友達はないのです。あっても無いと同じ事なのです。幽霊のような僕の心境に触れてくれる事のできる頭脳をもったものは、有るべきはずがないからです。僕は苦しさの余りにこの手紙を書きました。救を求めるために書いたのではありません。僕はあなたの境遇を知っています。物質上の補助、そんなものをあなたの方角から受け取る気は毛頭ないのです。ただこの苦痛の幾分が、あなたの脈管《みゃくかん》の中に流れている人情の血潮に伝わって、そこに同情の波を少しでも立ててくれる事ができるなら、僕はそれで満足です。僕はそれによって、僕がまだ人間の一員として社会に存在しているという確証を握る事ができるからです。この悪魔の重囲の中から、広々した人間の中へ届く光線は一縷《いちる》もないのでしょうか。僕は今それさえ疑っているのです。そうして僕はあなたから返事が来るか来ないかで、その疑いを決したいのです」
 手紙はここで終っていた。

        百六十五

 その時|先刻《さっき》火を点《つ》けて吸い始めた巻煙草《まきたばこ》の灰が、いつの間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙《けいし》の上に落ちた。津田は竪横《たてよこ》に走る藍色《あいいろ》の枠《わく》の上に崩《くず》れ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、ふと気がついて見ると、彼は煙草を持った手をそれまで動かさずにいた。というより彼の口と手がいつか煙草の存在を忘れていた。その上手紙を読み終ったのと煙草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまるぼんやりしたただの時間を認めなければならなかった。
 その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目《かいもく》解らなかった。中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れないくらい、彼の位置及び境遇とはかけ離れたものであった。
 しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。彼はどこかでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後《うしろ》をふり返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。するとああああこれも人間だという心持が、今日《こんにち》までまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。極《きわ》めて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。
 彼はそこでとまった。そうして※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》した。けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。
 彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。
「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」
 津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。
「読んだか」
「うん」
「どうだ」
 津田は何とも答えなかった。しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」
 小林は反問した。
「いったい何のために読ませたと思う」
「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」
「無論知らない人さ」
「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」
「この男がか、この手紙がか」
「どっちでも構わないが」
「君はどう思う」
 津田はまた躊躇《ちゅうちょ》した。実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。もっと明暸《めいりょう》にいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事ができたという自覚が彼の返事を鈍《にぶ》らせたのと同様であった。彼はしばらくして云った。
「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」
「僕のいう意味とは何だ?」
「解らないか」
「解らない。云って見ろ」
「いや、――まあ止《よ》そう」
 津田は先刻《さっき》の絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突きつけるのではなかろうかと疑った。何《なん》でもかでも彼を物質上の犠牲者にし終《おお》せた上で、後《あと》からざまを見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼にとって忍ぶべからざる侮辱であった。いくら貧乏の幽霊で威嚇《おどか》したってその手に乗るものかという彼の気慨が、自然小林の上に働らきかけた。
「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」
「男らしく? ふん」と云っていったん言葉を句
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