だ。答えて見ろ」
「君さ。君が僕にくれたのさ」
「いや僕じゃないよ」
「何を云うんだな禅坊主の寝言《ねごと》見たいな事を。じゃ誰だい」
「誰でもない、余裕さ。君の先刻《さっき》から攻撃している余裕がくれたんだ。だから黙ってそれを受け取った君は、口でむちゃくちゃに余裕をぶちのめしながら、その実余裕の前にもう頭を下げているんだ。矛盾じゃないか」
 小林は眼をぱちぱちさせた後《あと》でこう云った。
「なるほどな、そう云えばそんなものか知ら。しかし何だかおかしいよ。実際僕はちっともその余裕なるものの前に、頭を下げてる気がしないんだもの」
「じゃ返してくれ」
 津田は小林の鼻の先へ手を出した。小林は女のように柔らかそうなその掌《てのひら》を見た。
「いや返さない。余裕は僕に返せと云わないんだ」
 津田は笑いながら手を引き込めた。
「それみろ」
「何がそれみろだ。余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。気の毒なる貴公子《きこうし》よだ」
 小林はこう云いながら、横を向いて戸口の方を見つつ、また一句を付け加えた。
「もう来そうなものだな」
 彼の様子をよく見守った津田は、少し驚ろかされた。
「誰が来るんだ」
「誰でもない、僕よりもまだ余裕の乏しい人が来るんだ」
 小林は裸のまま紙幣をしまい込んだ自分の隠袋《ポケット》を、わざとらしく軽く叩《たた》いた。
「君から僕にこれを伝えた余裕は、再びこれを君に返せとは云わないよ。僕よりもっと余裕の足りない方へ順送《じゅんおく》りに送れと命令するんだよ。余裕は水のようなものさ。高い方から低い方へは流れるが、下から上へは逆行《ぎゃっこう》しないよ」
 津田はほぼ小林の言葉を、意解《いかい》する事ができた。しかし事解《じかい》する事はできなかった。したがって半醒半酔《はんせいはんすい》のような落ちつきのない状態に陥《おちい》った。そこへ小林の次の挨拶《あいさつ》がどさどさと侵入して来た。
「僕は余裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の詭弁《きべん》を首肯《しゅこう》するよ。何でも構わないよ。礼を云うよ、感謝するよ」
 彼は突然ぽたぽたと涙を落し始めた。この急劇な変化が、少し驚ろいている津田を一層不安にした。せんだっての晩|手古摺《てこず》らされた酒場《バー》の光景を思い出さざるを得なくなった彼は、眉《まゆ》をひそめると共に、相手を利用するのは今だという事に気がついた。
「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな逆《さか》に解釈するから、交際がますます面倒になるんじゃないか。例《たと》えばだね、君がこの間僕の留守へ外套《がいとう》を取りに行って、そのついでに何か妻《さい》に云ったという事も――」
 津田はこれだけ云って暗《あん》に相手の様子を窺《うかが》った。しかし小林が下を向いているので、彼はまるでその心持の転化作用を忖度《そんたく》する事ができなかった。
「何も好んで友達の夫婦仲を割《さ》くような悪戯《いたずら》をしなくってもいい訳じゃないか」
「僕は君に関して何も云った覚《おぼえ》はないよ」
「しかし先刻《さっき》……」
「先刻は笑談《じょうだん》さ。君が冷嘲《ひやか》すから僕も冷嘲したんだ」
「どっちが冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね」
「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を訊《き》き糺《ただ》して見れば解る事じゃないか」
「お延は……」
「何と云ったい」
「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の中《うち》で思っていられちゃ、弁解もできず説明もできず、困るのは僕だけだからね」
「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」
「僕は――」
 津田がこう云いかけた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼らの食卓の傍《そば》に立った。

        百六十二

 それが先刻大通りの角で、小林と立談《たちばなし》をしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。けれどもその驚ろきのうちには、暗《あん》にこの男を待ち受けていた期待も交《まじ》っていた。明らさまな津田の感じを云えば、こんな人がここへ来るはずはないという断案と、もしここへ誰か来るとすれば、この人よりほかにあるまいという予想の矛盾であった。
 実を云うと、自働車の燭光《あかり》で照らされた時、彼の眸《ひとみ》の裏《うち》に映ったこの人の影像《イメジ》は津田にとって奇異なものであった。自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点においてずいぶんな距離があった。勢い津田は彼を遠くに眺めなければならなかった。しかし遠くに眺めれば眺めるほど、強く彼を記憶しなければならなかった。
「小林はああいう人と交際《つきあ》ってるのかな」
 こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後《あと》なので、新来者に対する彼の態度も自《おの》ずから明白であった。彼は突然|胡散臭《うさんくさ》い人間に挨拶《あいさつ》をされたような顔をした。
 上へ反《そ》っ繰り返った細い鍔《つば》の、ぐにゃぐにゃした帽子を脱《と》って手に持ったまま、小林の隣りへ腰をおろした青年の眼には異様の光りがあった。彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。それは一種の反感と、恐怖と、人馴《ひとな》れない野育ちの自尊心とが錯雑《さくざつ》して起す神経的な光りに見えた。津田はますます厭《いや》な気持になった。小林は青年に向って云った。
「おいマントでも取れ」
 青年は黙って再び立ち上った。そうして釣鐘のような長い合羽《かっぱ》をすぽりと脱いで、それを椅子《いす》の背に投げかけた。
「これは僕の友達だよ」
 小林は始めて青年を津田に紹介《ひきあわ》せた。原という姓と芸術家という名称がようやく津田の耳に入った。
「どうした。旨《うま》く行ったかね」
 これが小林の次にかけた質問であった。しかしこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。小林は後からすぐこう云ってしまった。
「駄目《だめ》だろう。駄目にきまってるさ、あんな奴《やつ》。あんな奴に君の芸術が分ってたまるものか。いいからまあゆっくりして何か食いたまえ」
 小林はたちまちナイフを倒《さか》さまにして、やけに食卓《テーブル》を叩《たた》いた。
「おいこの人の食うものを持って来い」
 やがて原の前にあった洋盃《コップ》の中に麦酒《ビール》がなみなみと注《つ》がれた。
 この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事にようやく気がついた。こんなお付合《つきあい》を長くさせられては大変だと思った彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。すると小林が突然彼の方を向いた。
「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」
「そうか」
「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の家《うち》へ持って行って見せる事にしたら」
 津田は驚ろいた。
「僕に絵なんか解らないよ」
「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」
「ええ御迷惑でなければ」
 津田の迷惑は無論であった。
「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」
 青年は傷《きずつ》けられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。
「嘘《うそ》を云うな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」
 津田は苦笑せざるを得なかった。
「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」
「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」
 津田はだんだん辛防《しんぼう》し切れなくなって来た。
「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足《ひとあし》先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」
 給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止《と》めながら、また津田の方へ向き直った。
「ちょうど今一枚|素敵《すてき》に好いのが描《か》いてあるんだ。それを買おうという望手《のぞみて》の所へ価値《ねだん》の相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨《うま》い機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切《ねぎ》り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、先刻《さっき》あすこの角で約束しておいたんだ、実を云うと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」
「他《ひと》に絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」
「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」
「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」
「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲《ま》き上げられてしまうだけだぜ」
 津田はこの問答を聴いてほっと一息|吐《つ》いた。

        百六十三

 二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする三角派《さんかくは》とか未来派《みらいは》とかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴《き》いた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。その何処《いずこ》にも興味を見出《みい》だし得なかった彼は、会談の圏外《けんがい》へ放逐《ほうちく》されるまでもなく、自分から埒《らち》を脱《ぬ》け出したと同じ事であった。これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田は厭《いや》がらせる積極的なものがまだ一つあった。彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、むやみに新らしい芸術をふり廻したがる半可通《はんかつう》として、最初から取扱っていた。彼はこの偏見《プレジュジス》の上へ、乙《おつ》に識者ぶる彼らの態度を追加して眺めた。この点において無知な津田を羨《うら》やましがらせるのが、ほとんど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理にいったん落ちつけた腰をまた浮かしにかかった。すると小林がまた抑留した。
「もう直《じき》だ、いっしょに行くよ、少し待ってろ」
「いやあんまり遅くなるから……」
「何もそんなに他《ひと》に恥を掻かせなくってもよかろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」
 原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉《フォーク》で突き差した手を止《や》めた。
「どうぞお構いなく」
 津田が軽く会釈《えしゃく》を返して、いよいよ立ち上がろうとした時、小林はほとんど独りごとのように云った。
「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、肝心《かんじん》のお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴《やつ》が世の中にいるんだから厭《いや》になるな」
「そんなつもりじゃないよ」
「つもりでなければ、もう少《すこし》いろよ」
「少し用があるんだ」
「こっちにも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。吝《けち》な事を云うな」
「じゃ早くその用を片づけてくれ」
「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく坐《すわ》らなくっちゃ」
 仕方なしにまた腰をおろした津田は、袂《たもと》から煙草を出して火を点《つ》けた。ふと見ると、灰皿は敷島の残骸《ざんがい》でもういっぱいになっていた。今夜の記念としてこれほど適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。これから呑《の》もうとする一本も、三分|経《た》つか経たないうちに、灰と煙と吸口だけに変形して、役にも立たない冷たさを皿の上にとどめるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心
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