よ本論に入ろうというんだ」
津田は一気に洋盃《コップ》を唇《くちびる》へあてがって、ぐっと麦酒《ビール》を飲み干した小林の様子を、少し呆《あき》れながら眺めた。
百五十九
小林は言葉を継《つ》ぐ前に、洋盃を下へ置いて、まず室内を見渡した。女伴《おんなづれ》の客のうち、一組の相手は洗指盆《フィンガーボール》の中へ入れた果物を食った後の手を、袂《たもと》から出した美くしい手帛《ハンケチ》で拭いていた。彼の筋向うに席を取って、先刻《さっき》から時々自分達の方を偸《ぬす》むようにして見る二十五六の方は、※[#「口+加」、第3水準1−14−93]※[#「口+非」、第4水準2−4−8]茶碗《コーヒーぢゃわん》を手にしながら、男の吹かす煙草《たばこ》の煙を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。両方とも彼らより先に来ただけあって、彼らより先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行しているらしく見えた時、小林は云った。
「やあちょうど好い。まだいる」
津田はまたはっと思った。小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。
「おいもう好い加減に止《よ》せよ」
「まだ何にも云やしないじゃないか」
「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと慎《つつ》しんでくれ、こんな所へ来て」
「厭《いや》に小心だな。おおかた場末の酒場《バー》とここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう」
「まあそうだ」
「まあそうだなら、僕のごとき無頼漢《ぶらいかん》をこんな所へ招待するのが間違だ」
「じゃ勝手にしろ」
「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」
津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。
「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」
「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」
「その代り今後ますます貴様を軽蔑《けいべつ》してやるからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんか屁《へ》とも思っちゃいないよ」
「思わなけりゃ思わないでもいいさ。五月蠅《うるさ》い男だな」
小林はむっとした津田の顔を覗《のぞ》き込むようにして見つめながら云った。
「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻《さっき》から云うんだ、実地を踏んで鍛《きた》え上げない人間は、木偶《でく》の坊《ぼう》と同《おん》なじ事だって」
「そうだそうだ。世の中で擦《す》れっ枯《か》らしと酔払いに敵《かな》うものは一人もないんだ」
何か云うはずの小林は、この時返事をする代りにまた女伴《おんなづれ》の方を一順《いちじゅん》見廻した後で、云った。
「じゃいよいよ第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」
津田は黙って横を向いた。小林はいっこう構わなかった。
「第三にはだね。すなわち換言すると、本論に入って云えばだね。僕は先刻あすこにいる女達を捕《つら》まえて、ありゃ芸者かって君に聴いて叱《しか》られたね。君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。よろしい僕は野人だ。野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。それで僕は君に訊《き》いたね、いったい芸者と貴婦人とはどこがどう違うんだって」
小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。手帛《ハンケチ》で手を拭いていた人は、それを合図のように立ち上った。残る一人《いちにん》も給仕を呼んで勘定を払った。
「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな、惜しい事に」
小林は出て行く女伴の後影《うしろかげ》を見送った。
「おやおやもう一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手はやっぱり君だけだ」
彼は再び津田の方へ向き直った。
「問題はそこだよ、君。僕が仏蘭西《フランス》料理と英吉利《イギリス》料理を食い分ける事ができずに、糞《くそ》と味噌《みそ》をいっしょにして自慢すると、君は相手にしない。たかが口腹《こうふく》の問題だという顔をして高を括《くく》っている。しかし内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも」
津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼を翻《ひる》がえして小林を見た。
「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上において、君に軽蔑《けいべつ》されながら、君より幸福だと主張するごとく、婦人を識別する上においても、君に軽蔑されながら、君より自由な境遇に立っていると断言して憚《はば》からないのだ。つまり、あれは芸者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればあるほど、その男の苦痛は増して来るというんだ。なぜと云って見たまえ。しまいには、あれも厭《いや》、これも厭だろう。あるいはこれでなくっちゃいけない、あれでなくっちゃいけないだろう。窮屈千万じゃないか」
「しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」
「来たな、とうとう。食物《くいもの》だと相手にしないが、女の事になると、やっぱり黙っていられなくなると見えるね。そこだよ、そこを実際問題について、これから僕が論じようというんだ」
「もうたくさんだ」
「いやたくさんじゃないらしいぜ」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
百六十
小林は旨《うま》く津田を釣り寄せた。それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとうとう際《きわ》どい所へ入り込まなければならなくなった。
「例《たと》えばだね」と彼が云い出した。「君はあの清子《きよこ》さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何《なん》でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
「結果は今のごとくさ」
「大変|淡泊《さっぱ》りしているじゃないか」
「だってほかにしようがなかろう」
「いや、あるんだろう。あっても乙《おつ》に気取《きど》って澄ましているんだろう。でなければ僕に隠して今でも何かやってるんだろう」
「馬鹿いうな。そんな出鱈目《でたらめ》をむやみに口走るととんだ間違になる。少し気をつけてくれ」
「実は」と云いかけた小林は、その後《あと》を知ってるかと云わぬばかりの様子をした。津田はすぐ訊きたくなった。
「実はどうしたんだ」
「実はこの間《あいだ》君の細君にすっかり話しちまったんだ」
津田の表情がたちまち変った。
「何を?」
小林は相手の調子と顔つきを、噛《か》んで味わいでもするように、しばらく間《ま》をおいて黙っていた。しかし返事を表へ出した時は、もう態度を一変していた。
「嘘《うそ》だよ。実は嘘だよ。そう心配する事はないよ」
「心配はしない。今になってそのくらいの事を云《い》つけられたって」
「心配しない? そうか、じゃこっちも本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」
「馬鹿ッ」
津田の声は案外大きかった。行儀よく椅子《いす》に腰をかけていた給仕の女が、ちょっと首を上げて眼をこっちへ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。
「貴婦人《レデー》が驚ろくから少し静かにしてくれ。君のような無頼漢《ぶらいかん》といっしょに酒を飲むと、どうも外聞が悪くていけない」
彼は給使《きゅうじ》の女の方を見て微笑して見せた。女も微笑した。津田一人|怒《おこ》る訳に行かなかった。小林はまたすぐその機に付け込んだ。
「いったいあの顛末《てんまつ》はどうしたのかね。僕は詳しい事を聴《き》かなかったし、君も話さなかった、のじゃない、僕が忘れちまったのか。そりゃどうでも構わないが、ありゃ向うで逃げたのかね、あるいは君の方で逃げたのかね」
「それこそどうでも構わないじゃないか」
「うん僕としては構わないのが当然だ。また実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は大構《おおかま》いだろう」
「そりゃ当り前さ」
「だから先刻《さっき》から僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をしてあまりに贅沢《ぜいたく》ならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太《じだんだ》を踏んで口惜《くや》しがる」
「いつそんな様《ざま》を僕がした」
「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟《たた》られている所以《ゆえん》だね。僕の最も痛快に感ずるところだね。貧賤《ひんせん》が富貴《ふうき》に向って復讐《ふくしゅう》をやってる因果応報《いんがおうほう》の理だね」
「そう頭から自分の拵《こしら》えた型《かた》で、他《ひと》を評価する気ならそれまでだ。僕には弁解の必要がないだけだから」
「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。分らなけりゃ、事実で教えてやろうか」
教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。
「君は自分の好みでお延《のぶ》さんを貰《もら》ったろう。だけれども今の君はけっしてお延さんに満足しているんじゃなかろう」
「だって世の中に完全なもののない以上、それもやむをえないじゃないか」
「という理由をつけて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」
「人聞の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの無頼漢《ぶらいかん》だね。観察の下卑《げび》て皮肉なところから云っても、言動の無遠慮で、粗野《そや》なところから云っても」
「そうしてそれが君の軽蔑《けいべつ》に値《あたい》する所以《ゆえん》なんだ」
「もちろんさ」
「そらね。そう来るから畢竟《ひっきょう》口先じゃ駄目《だめ》なんだ。やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時ようやく僕の敵でないという意味が分るから」
「構わない、擦《す》れっ枯《か》らしに負けるのは僕の名誉だから」
「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」
「じゃ誰と戦うんだ」
「君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動《せんどう》して無役《むえき》の負戦《まけいくさ》をさせるんだ」
津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別《せんべつ》の用意に持って来た金を小林の前へ突きつけた。
「今渡しておくから受取っておけ。君と話していると、だんだんこの約束を履行するのが厭《いや》になるだけだから」
小林は新らしい十円|紙幣《さつ》の二つに折れたのを広げて丁寧に、枚数を勘定した。
「三枚あるね」
百六十一
小林は受け取ったものを、赤裸《あかはだか》のまま無雑作《むぞうさ》に背広《せびろ》の隠袋《ポケット》の中へ投げ込んだ。彼の所作《しょさ》が平淡であったごとく、彼の礼の云《い》い方《かた》も横着であった。
「サンクス。僕は借りる気だが、君はくれるつもりだろうね。いかんとなれば、僕に返す手段のない事を、また返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」
津田は答えた。
「無論やったんだ。しかし貰《もら》ってみたら、いかな君でも自分の矛盾に気がつかずにはいられまい」
「いやいっこう気がつかない。矛盾とはいったい何だ。君から金を貰うのが矛盾なのか」
「そうでもないがね」と云った津田は上から下を見下《みおろ》すような態度をとった。「まあ考えて見たまえ。その金はつい今まで僕の紙入の中にあったんだぜ。そうして転瞬《てんしゅん》の間に君の隠袋の裏に移転してしまったんだぜ。そんな小説的の言葉を使うのが厭なら、もっと判然《はっきり》云おうか。その金の所有権を急に僕から君に移したものは誰
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