一の一品《いっぴん》料理と同《おん》なじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか」
津田は苦笑するよりほかに仕方がなかった。小林は一人でしゃべった。
「いったい今の僕にゃ、仏蘭西《フランス》料理だから旨いの、英吉利《イギリス》料理だから不味いのって、そんな通《つう》をふり廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」
「だってそれじゃなぜ旨いんだか、理由《わけ》が解《わか》らなくなるじゃないか」
「解り切ってるよ。ただ飢《ひも》じいから旨いのさ。その他に理窟《りくつ》も糸瓜《へちま》もあるもんかね」
津田はまた黙らせられた。しかし二人の間に続く無言が重く胸に応《こた》えるようになった時、彼はやむをえずまた口を開こうとして、たちまち小林のために機先を制せられた。
百五十七
「君のような敏感者から見たら、僕ごとき鈍物《どんぶつ》は、あらゆる点で軽蔑《けいべつ》に値《あたい》しているかも知れない。僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。けれども僕には僕でまた相当の云草《いいぐさ》があるんだ。僕の鈍《どん》は必ずしも天賦《てんぷ》の能力に原因しているとは限らない。僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ」
この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。笑談とも真面目とも片のつかない彼の気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》には、わざと酔の力を藉《か》ろうとする欝散《うっさん》の傾《かたむ》きが見えて来た。津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯《うけが》うべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方につき合う必要を見出《みいだ》した。
「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の朝鮮行《ちょうせんいき》を送る訳がないからね」
「ありがとう」
「いや嘘《うそ》じゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云って聴《き》かせたくらいだもの」
胡散臭《うさんくさ》いなという眼が小林の眉《まゆ》の下で輝やいた。
「へええ。本当《ほんと》かい。あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。しかしそりゃ……。細君は何と云ったね」
津田は黙って懐《ふところ》へ手を入れた。小林はその所作《しょさ》を眺めながら、わざとそれを止《や》めさせるように追加した。
「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」
津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事はここにある」といって、綺麗《きれい》に持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇《ちゅうちょ》した。その代り話頭《わとう》を前へ押し戻した。
「やはり人間は境遇次第だね」
「僕は余裕次第だというつもりだ」
津田は逆《さか》らわなかった。
「そうさ余裕次第とも云えるね」
「僕は生れてから今日《きょう》までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》わがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」
津田は薄笑いをした。小林は真面目《まじめ》であった。
「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較《みくら》べればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」
津田は心の中《うち》でその幾分を点頭《うなず》いた。けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。
「それでどうだ。僕は始終《しじゅう》君に軽蔑《けいべつ》される、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。すべて先刻《さっき》云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地《いち》が変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」
小林はここまで来て少し昂奮《こうふん》したような気色《けしき》を見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭《いや》になってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身もいったん頓挫《とんざ》してからまた出直した。
「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」
「そりゃ解ってるよ」
「いや解らない。軽蔑《けいべつ》の結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕《こんゆう》の好意に対して、僕はまた留別《りゅうべつ》のために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」
「よかろう」
「よくないたって、僕のような一文《いちもん》なしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」
「だからいいよ」
「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走《ごちそう》になって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西《フランス》料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場《バー》の酒も、どっちも無差別に旨《うま》いくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終《しじゅう》ぐらついてるよ。度胸が坐《すわ》ってないよ。厭《いや》なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追《おっ》かけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利《き》くためさ。贅沢《ぜいたく》をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
津田はてんから相手を見縊《みくび》っていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。
百五十八
しかし小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴《てんてつ》されながら、前後の勢《いきおい》ですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。
「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明《そうめい》な君を煩《わずら》わしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君は襟《えり》を正して聴くに違ないんだ。いや僕の僻《ひがみ》でも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ? なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は甞《な》めていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩《かのはい》においてをやだ」
彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを指《さ》すのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。
「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言《じょごん》――だか忠告だか、または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、しかし胸では納得《なっとく》しない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳《は》ねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。人間の境遇もしくは位地《いち》の懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然《はっきり》云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違《ちがい》だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰《めんくら》うか、迷児《まご》つくか、蹴爪《けつま》ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝《いっちょう》事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」
「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」
「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」
「よろしい。心得たよ」
「ところがいくら心得たって駄目《だめ》なんだからおかしいや」
小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は訊《き》かれない先に説明した。
「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声《かけごえ》と共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」
「そいつは解らないよ」
「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。憚《はばか》りながらここまで来るには相当の修業が要《い》るんだからね。いかに痴鈍《ちどん》な僕といえども、現在の自分に対してはこれで血《ち》の代《しろ》を払ってるんだ」
津田は小林の得意が癪《しゃく》に障《さわ》った。此奴《こいつ》が狗《いぬ》のような毒血を払ってはたして何物を掴《つか》んでいる? こう思った彼はわざと軽蔑《けいべつ》の色を面《おもて》に現わして訊《き》いて見た。
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」
「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」
「聴かない方がましなくらいだ」
小林は嬉《うれ》しそうに身体《からだ》を椅子《いす》の背に靠《もた》せかけてまた笑い出した。
「そこだ。そう来るところがこっちの思う壺《つぼ》なんだ」
「何をいうんだ」
「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」
津田は厭《いや》な顔をした。
「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」
「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑《けいべつ》に対する僕の復讐《ふくしゅう》がその時始めて実現されるというだけさ」
津田は言葉を改めた。
「それほど君は僕に敵意をもってるのか」
「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙《おつ》に高くとまって平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」
「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」
「いやどうして。これからいよい
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