れて来たんでしょう」
「そりゃおれにかけ合ったって駄目《だめ》だ。京都にいるお父さんかお母さんへ尻《しり》を持ち込むよりほかに、苦情の持ってきどころはないんだから」
苦笑したお延はまだ黙らなかった。
「いいから、今に見ていらっしゃい」
「何を」と訊《き》き返した津田は少し驚ろかされた。
「何でもいいから、今に見ていらっしゃい」
「見ているが、いったい何だよ」
「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」
「云えないのはつまりお前にも解《わか》らないという意味なんじゃないか」
「ええそうよ」
「何だ下らない。それじゃまるで雲を掴《つか》むような予言だ」
「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」
津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。
「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃|始終《しじゅう》そう思ってるの、いつか一度このお肚《なか》の中にもってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違《ちがい》ないって」
「いつか一度? だからお前のは妄想《もうぞう》と同《おん》なじ事なんだよ」
「いいえ生涯《しょうがい》のうちでいつか一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらのいつか一度なの」
「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵《かな》わない」
「いいえ、あなたのためによ。だから先刻《さっき》から云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」
真面目《まじめ》なお延の顔を見ていると、津田もしだいしだいに釣り込まれるだけであった。彼の性格にはお延ほどの詩がなかった。その代り多少気味の悪い事実が遠くから彼を威圧していた。お延の詩、彼のいわゆる妄想は、だんだん活躍し始めた。今まで死んでいるとばかり思って、弄《いじく》り廻していた鳥の翅《つばさ》が急に動き出すように見えた時、彼は変な気持がして、すぐ会話を切り上げてしまった。
彼は帯の間から時計を出して見た。
「もう時間だ、そろそろ出かけなくっちゃ」
こう云って立ち上がった彼の後《あと》を送って玄関に出たお延は、帽子《ぼうし》かけから茶の中折を取って彼の手に渡した。
「行っていらっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」
津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。
百五十五
小林と会見の場所は、東京で一番|賑《にぎ》やかな大通りの中ほどを、ちょっと横へ切れた所にあった。向うから宅《うち》へ誘いに寄って貰《もら》う不快を避けるため、またこっちで彼の下宿を訪《たず》ねてやる面倒を省《はぶ》くため、津田は時間をきめてそこで彼に落ち合う手順にしたのである。
その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間|坐談《ざだん》をしていたために起ったこの遅刻は、何らの痛痒《つうよう》を彼に与えるに足りなかった。有体《ありてい》に云えば、彼は小林に対して克明に律義《りちぎ》を守る細心の程度を示したくなかった。それとは反対に、少し時間を後《おく》らせても、放縦《ほうしょう》な彼の鼻柱を挫《くじ》いてやりたかった。名前は送別会だろうが何だろうが、その実金をやるものと貰うものとが顔を合せる席にきまっている以上、津田はたしかに優者であった。だからその優者の特権をできるだけ緊張させて、主客《しゅかく》の位地《いち》をあらかじめ作っておく方が、相手の驕慢《きょうまん》を未前に防ぐ手段として、彼には得策であった。利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。
彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも素見《ひやか》して、慾《よく》の皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦《じ》らしてやろうとまで思案した。
停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光《あかり》の数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分なくらい、右往左往へちらちらした。彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これらの燭光《あかり》と共に十分ぐらい動いて歩こうか歩くまいかと迷った。ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除《よ》けて、四辺《あたり》を見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。
もうだいぶ待ち草臥《くたび》れているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。位地《いち》は津田の降りた舗床《ペーヴメント》と車道を一つ隔《へだ》てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮《さえ》ぎる便利があった。のみならず小林は真面《まとも》にこっちを向いていなかった。彼は津田のまだ見知らない青年と立談《たちばなし》をしていた。青年の顔は三分の二ほど、小林のは三分の一ほど、津田の方角から見えるだけなので、彼はほぼ露見の恐れなしに、自分の足の停《と》まった所から、二人の模様を注意して観察する事ができた。二人はけっして余所見《よそみ》をしなかった。顔と顔を向き合せたまま、いつまでも同じ姿勢を崩《くず》さない彼らの体《てい》が、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目《まじめ》な用談の、互いの間に取り換わされている事は明暸《めいりょう》に解《わか》った。
二人の後《うしろ》には壁があった。あいにく横側に窓が付いていないので、強い光はどこからも射さなかった。ところへ南から来た自働車が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。その時二人は自働車の前側に装置してある巨大な灯光を満身に浴びて立った。津田は始めて青年の容貌《ようぼう》を明かに認める事ができた。蒼白《あおじろ》い血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾カ月となく刈《か》り込まない※[#「參+毛」、第3水準1−86−45]々《さんさん》たる髪の毛と共に、彼の視覚を冒《おか》した。彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵《きびす》を回《めぐ》らした。そうして二人の立っている舗道《ほどう》を避けるように、わざと反対の方向へ歩き出した。
彼には何の目的もなかった。はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。商買が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な趣《おもむき》は見出《みいだ》されなかった。それにもかかわらず彼は到《いた》る処に視覚の満足を味わった。しまいに或|唐物屋《とうぶつや》の店先に飾ってあるハイカラな襟飾《ネクタイ》を見た時に、彼はとうとうその家《うち》の中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。
もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。煉瓦作《れんがづく》りで窓が高いのと、模様のある玉子色の布《きぬ》に遮《さえ》ぎられて、間接に夜《よ》の中へ光線が放射されるので、通《とお》り際《ぎわ》に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉《ガスだんろ》を供えた品《ひん》の好い食堂であった。
大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。長い間|仏蘭西《フランス》とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨《うま》いのだと友人に教えられたのが原《もと》で、四五遍食いに来た因縁《いんねん》を措《お》くと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。
彼は容赦《ようしゃ》なく扉《とびら》を押して内へ入った。そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰《てもちぶさた》ででもあるような風をして、真面目《まじめ》な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。
百五十六
小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐《すわ》っている食卓《テーブル》の傍《そば》まで近寄って行ってこっちから声をかけた。
「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」
小林はようやく新聞を畳んだ。
「君時計をもってるだろう」
津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりのところなんだ」
二人は向い合って席についた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装《みなり》をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔《へだ》てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉《ガスストーブ》の火の色が、白いものの目立つ清楚《せいそ》な室《へや》の空気に、恰好《かっこう》な温《ぬく》もりを与えた。
津田の心には、変な対照が描き出された。この間の晩小林のお蔭《かげ》で無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場《バー》の光景がありありと彼の眼に浮んだ。その時の相手を今度は自分の方でここへ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。
「どうだね、ここの宅《うち》は。ちょっと綺麗《きれい》で心持が好いじゃないか」
小林は気がついたように四辺《ぐるり》を見廻した。
「うん。ここには探偵はいないようだね」
「その代り美くしい人がいるだろう」
小林は急に大きな声を出した。
「ありゃみんな芸者なんか君」
ちょっときまりの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。
「馬鹿云うな」
「いや何とも限らないからね。どこにどんなものがいるか分らない世の中だから」
津田はますます声を低くした。
「だって芸者はあんな服装《なり》をしやしないよ」
「そうか。君がそう云うなら確《たしか》だろう。僕のような田舎《いなか》ものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね」
「相変らず皮肉《ひにく》るな」
津田は少し悪い気色《きしょく》を外へ出した。小林は平気であった。
「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ開《あ》いていないんだ。ただ正直にそう思うだけなんだ」
「そんならそれでいいさ」
「よくなくっても仕方がない訳だがね。しかし事実どうだろう君」
「何が」
「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」
津田は空《そら》っ惚《とぼ》ける事の得意なこの相手の前に、真面目《まじめ》な返事を与える子供らしさを超越して見せなければならなかった。同時に何とかして、ゴツンと喰《くら》わしてやりたいような気もした。けれども彼は遠慮した。というよりも、ゴツンとやるだけの言葉が口へ出て来なかった。
「笑談《じょうだん》じゃない」
「本当に笑談《じょうだん》じゃない」と云った小林はひょいと眼を上げて津田の顔を見た。津田はふと気がついた。しかし相手に何か考えがあるんだなと悟った彼は、あまりに怜俐《りこう》過ぎた。彼には澄ましてそこを通り抜けるだけの腹がなかった。それでいて当らず障《さわ》らず話を傍《わき》へ流すくらいの技巧は心得ていた。彼は小林に捕《つら》まらなければならなかった。彼は云った。
「どうだ君ここの料理は」
「ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」
「不味《まず》いかい」
「不味かない、旨《うま》いよ」
「そりゃ好い案配《あんばい》だ。亭主が自分でクッキングをやるんだから、ほかよりゃ少しはましかも知れない」
「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ敵《かな》わないよ。泣くだけだあね」
「だけど旨けりゃそれでいいんだ」
「うん旨けりゃそれでいい訳だ。しかしその旨さが十銭均
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