まで云った。
「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸《めいりょう》になれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」
 津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧《ふる》い交際と、その交際から出る懐《なつ》かしい記憶とを挙げた。懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡《ひろ》げた。それでも腑《ふ》に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道《じんどう》まで云々した。しかし彼の口にする人道はついに一個の功利説《こうりせつ》に帰着するので、彼は吾《われ》知らず自分の拵《こしら》えた陥穽《かんせい》に向って進んでいながら気がつかず、危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下《しも》のようになった。
「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない奴《やつ》さ。しようのない奴には違《ちがい》ないけれども、あいつがこうなった因《おこ》りをよく考えて見ると、何でもないんだ。ただ不平だからだ。じゃなぜ不平だというと、金が取れないからだ。ところがあいつは愚図《ぐず》でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」
 これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止《とど》まる事ができないのである。
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞《やけくそ》になってる人間に逆《さか》らうと何をするか解《わか》らないんだ。誰とでも喧嘩《けんか》がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得《とく》になるだけだって、現にここへ来て公言して威張《えば》ってるんだからね、実際始末に了《お》えないよ。だから今もしおれがあいつの要求を跳《は》ねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐《かたきうち》をやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体《せけんてい》があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵《かな》いっこないんだ。解ったかね」
 ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩《くず》れてしまう。しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭《うなず》くよりほかに仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。
「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口《あっこう》するだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰《もら》うのが上策なんだ。でないといつどんな目に逢《あ》うか解ったもんじゃない」
 こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖《こわ》がる因縁《いんねん》がないじゃありませんか」
 二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。それを自分の小遣《こづかい》として、任意に自分の嗜慾《しよく》を満足するという彼女の条件は直《ただ》ちに成立した。その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。
 うそ寒《さむ》の宵《よい》に、若い夫婦間に起った波瀾《はらん》の消長はこれでようやく尽きた。二人はひとまず別れた。

        百五十三

 津田の辛防《しんぼう》しなければならない手術後の経過は良好であった。というよりもむしろ順当に行った。五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えてくれた後で、それを保証した。
「至極《しごく》好い具合です。出血も口元だけです。内部《なか》の方は何ともありません」
 六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。
「出血はどうです。まだ止《と》まりませんか」
「いや、もうほとんど止まりました」
 出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。好い加減に「もう癒《なお》りました」という解釈をそれに付けて大変喜こんだ。しかし本式の事実は彼の考える通りにも行かなかった。彼と医者の間に起った一場《いちじょう》の問答がその辺の消息を明らかにした。
「これが癒り損《そく》なったらどうなるんでしょう」
「また切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」
「心細いですな」
「なに十中八九は癒るにきまってます」
「じゃ本当の意味で全癒というと、まだなかなか時間がかかるんですね」
「早くて三週間遅くて四週間です」
「ここを出るのは?」
「出るのは明後日《みょうごにち》ぐらいで差支えありません」
 津田はありがたがった。そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、かえって神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。それはほとんど平生の彼に似合わない粗忽《そこつ》な遣口《やりくち》であった。彼は甘んじてこの不謹慎を断行しようと決心しながら、肚《はら》の中ですでに自分の矛盾を承知しているので、何だか不安であった。彼は訊《き》かないでもいい質問を医者にかけてみたりした。
「括約筋《かつやくきん》を切り残したとおっしゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰《つ》められるんですか」
「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から斜《はす》に三分ほど削《けず》り上げた所があるのです」
 津田はその晩から粥《かゆ》を食い出した。久しく麺麭《パン》だけで我慢していた彼の口には水ッぽい米の味も一種の新らしみであった。趣味として夜寒《よさむ》の粥を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵《よい》の冷たさを対照に置く薄粥《うすがゆ》の暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜《すす》る事ができた。
 療治の必要上、長い事|止《と》められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。さほど苦《く》にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分もいつか軽くなった。身体《からだ》の楽になった彼は、寝転《ねこ》ろんでただ退院の日を待つだけであった。
 その日も一晩明けるとすぐに来た。彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。
「やっと帰れる事になった訳かな。まあありがたい」
「あんまりありがたくもないでしょう」
「いやありがたいよ」
「宅《うち》の方が病院よりはまだましだとおっしゃるんでしょう」
「まあその辺かも知れないがね」
 津田はいつもの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。
「今度はお前の拵《こしら》えてくれた※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《どてら》で助かったよ。綿が新らしいせいか大変着心地が好いね」
 お延は笑いながら夫を冷嘲《ひやか》した。
「どうなすったの。なんだか急にお世辞《せじ》が旨《うま》くおなりね。だけど、違ってるのよ、あなたの鑑定は」
 お延は問題の※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍を畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。津田はその時着物を着換えていた。絞《しぼ》りの模様の入った縮緬《ちりめん》の兵児帯《へこおび》をぐるぐる腰に巻く方が、彼にはむしろ大事な所作《しょさ》であった。それほど軽く※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍の中味を見ていた彼の愛嬌《あいきょう》は、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかった。彼はただ「はあそうかい」と云ったぎりであった。
「お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい」
「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」
「しかし宿屋で貸してくれる※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍の方がずっとよかったり何かすると、いい恥っ掻きね、あたしの方は」
「そんな事はないよ」
「いえあるのよ。品質《もの》が悪いとどうしても損ね、そういう時には。親切なんかすぐどこかへ飛んでっちまうんだから」
 無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。そこには一種のアイロニーが顫動《せんどう》していた。※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《どてら》は何かの象徴《シンボル》であるらしく受け取れた。多少気味の悪くなった津田は、お延に背中を向けたままで、兵児帯《へこおび》の先をこま結びに結んだ。
 やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐそこに待たしてある車に乗った。
「さよなら」
 多事な一週間の病院生活は、この一語でようやく幕になった。

        百五十四

 目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、まず小林に会わなければならなかった。約束の日が来た時、お延から入用《いりよう》の金を受け取った彼は笑いながら細君を顧みた。
「何だか惜しいな、あいつにこれだけ取られるのは」
「じゃ止《よ》した方が好いわ」
「おれも止したいよ」
「止したいのになぜ止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」
「うん、頼んでもいいね」
「どこであの人にお逢《あ》いになるの。場所さえおっしゃれば、あたし行って上げるわ」
 お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい笑談《じょうだん》に押すと、押したこっちがかえって手古摺《てこず》らせられるくらいの事は、彼に困難な想像ではなかった。お延はいざとなると口で云った通りを真面《まとも》に断行する女であった。たとい違約であろうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかった。彼は危険区域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不真面目《ふまじめ》な方角へ流してしまった。
「お前は見かけに寄らない勇気のある女だね」
「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した例《ためし》がないから、実際どのくらいあるか自分にも分らないわ」
「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それでたくさんだよ。女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」
「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困るはずがないじゃないの」
「そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には固《もと》より本気に受け答えをするつもりもなかった。「今日《こんにち》までそれほど感服に値する勇気を拝見した覚《おぼえ》もないようだね」
「そりゃその通りよ。だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから」
 津田は答えなかった。しかしお延はやめなかった。
「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、あなたには」
「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」
 この好い加減な無駄口の前に、お延は微《かす》かな溜息《ためいき》を洩《も》らした後で云った。
「つまらないわね、女なんて。あたし何だって女に生
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