た時は引き受けて下さいって云えばいいんだ。そうすればおれの方じゃ、よろしい受け合ったと、こう答えるのさ。どうだねその辺のところで妥協《だきょう》はできないかね」
百五十
妥協という漢語がこの場合いかに不釣合に聞こえようとも、その時の津田の心事《しんじ》を説明するには極《きわ》めて穏当であった。実際この言葉によって代表される最も適切な意味が彼の肚《はら》にあった事はたしかであった。明敏なお延の眼にそれが映った時、彼女の昂奮《こうふん》はようやく喰《く》いとめられた。感情の潮《うしお》がまだ上《のぼ》りはしまいかという掛念《けねん》で、暗《あん》に頭を悩ませていた津田は助かった。次の彼には喰いとめた潮《うしお》の勢《いきおい》を、反対な方向へ逆用する手段を講ずるだけの余裕ができた。彼はお延を慰めにかかった。彼女の気に入りそうな文句を多量に使用した。沈着な態度を外部側《そとがわ》にもっている彼は、また臨機に自分を相手なりに順応させて行く巧者《こうしゃ》も心得ていた。彼の努力ははたして空《むな》しくなかった。お延は久しぶりに結婚以前の津田を見た。婚約当時の記憶が彼女の胸に蘇《よみが》えった。
「夫は変ってるんじゃなかった。やっぱり昔の人だったんだ」
こう思ったお延の満足は、津田を窮地から救うに充分であった。暴風雨になろうとして、なり損《そく》ねた波瀾《はらん》はようやく収まった。けれども事前《じぜん》の夫婦は、もう事後《じご》の夫婦ではなかった。彼らはいつの間にか吾《われ》知らず相互の関係を変えていた。
波瀾の収まると共に、津田は悟った。
「畢竟《ひっきょう》女は慰撫《いぶ》しやすいものである」
彼は一場《いちじょう》の風波《ふうは》が彼に齎《もたら》したこの自信を抱いてひそかに喜こんだ。今までの彼は、お延に対するごとに、苦手《にがて》の感をどこかに起さずにいられた事がなかった。女だと見下ろしながら、底気味の悪い思いをしなければならない場合が、日ごとに現前《げんぜん》した。それは彼女の直覚であるか、または直覚の活作用とも見傚《みな》される彼女の機略《きりゃく》であるか、あるいはそれ以外の或物であるか、たしかな解剖《かいぼう》は彼にもまだできていなかったが、何しろ事実は事実に違いなかった。しかも彼自身自分の胸に畳み込んでおくぎりで、いまだかつて他《ひと》に洩《も》らした事のない事実に違いなかった。だから事実と云い条、その実は一個の秘密でもあった。それならばなぜ彼がこの明白な事実をわざと秘密に附していたのだろう。簡単に云えば、彼はなるべく己《おの》れを尊《とうと》く考がえたかったからである。愛の戦争という眼で眺めた彼らの夫婦生活において、いつでも敗者の位地《いち》に立った彼には、彼でまた相当の慢心があった。ところがお延のために征服される彼はやむをえず征服されるので、心《しん》から帰服するのではなかった。堂々と愛の擒《とりこ》になるのではなくって、常に騙《だま》し打《うち》に会っているのであった。お延が夫の慢心を挫《くじ》くところに気がつかないで、ただ彼を征服する点においてのみ愛の満足を感ずる通りに、負けるのが嫌《きらい》な津田も、残念だとは思いながら、力及ばず組み敷かれるたびに降参するのであった。この特殊な関係を、一夜《いちや》の苦説《くぜつ》が逆《さか》にしてくれた時、彼のお延に対する考えは変るのが至当であった。彼は今までこれほど猛烈に、また真正面に、上手《うわて》を引くように見えて、実は偽りのない下手《したで》に出たお延という女を見た例《ためし》がなかった。弱点を抱《だ》いて逃げまわりながら彼は始めてお延に勝つ事ができた。結果は明暸《めいりょう》であった。彼はようやく彼女を軽蔑《けいべつ》する事ができた。同時に以前よりは余計に、彼女に同情を寄せる事ができた。
お延にはまたお延で波瀾後《はらんご》の変化が起りつつあった。今までかつてこういう態度で夫に向った事のない彼女は、一気に津田の弱点を衝《つ》く方に心を奪われ過ぎたため、ついぞ露《あら》わした事のない自分の弱点を、かえって夫に示してしまったのが、何より先に残念の種になった。夫に愛されたいばかりの彼女には平常からわが腕に依頼する信念があった。自分は自分の見識を立て通して見せるという覚悟があった。もちろんその見識は複雑とは云えなかった。夫の愛が自分の存在上、いかに必要であろうとも、頭を下げて憐《あわれ》みを乞うような見苦しい真似《まね》はできないという意地に過ぎなかった。もし夫が自分の思う通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せるという堅い決心であった。のべつにこの決心を実行して来た彼女は、つまりのべつに緊張していると同じ事であった。そうしてその緊張の極度はどこかで破裂するにきまっていた。破裂すれば、自分で自分の見識をぶち壊《こわ》すのと同じ結果に陥《おち》いるのは明暸であった。不幸な彼女はこの矛盾に気がつかずに邁進《まいしん》した。それでとうとう破裂した。破裂した後で彼女はようやく悔いた。仕合せな事に自然は思ったより残酷でなかった。彼女は自分の弱点を浚《さら》け出すと共に一種の報酬を得た。今までどんなに勝ち誇っても物足りた例のなかった夫の様子が、少し変った。彼は自分の満足する見当に向いて一歩近づいて来た。彼は明らかに妥協という字を使った。その裏に彼女の根限《こんかぎ》り掘り返そうと力《つと》めた秘密の潜在する事を暗《あん》に自白した。自白?。彼女はよく自分に念を押して見た。そうしてそれが黙認に近い自白に違いないという事を確かめた時、彼女は口惜《くや》しがると同時に喜こんだ。彼女はそれ以上夫を押さなかった。津田が彼女に対して気の毒という念を起したように、彼女もまた津田に対して気の毒という感じを持ち得たからである。
百五十一
けれども自然は思ったより頑愚《かたくな》であった。二人はこれだけで別れる事ができなかった。妙な機《はず》みからいったん収まりかけた風波がもう少しで盛り返されそうになった。
それは昂奮《こうふん》したお延の心持がやや平静に復した時の事であった。今切り抜けて来た波瀾《はらん》の結果はすでに彼女の気分に働らきかけていた。酔を感ずる人が、その酔を利用するような態度で彼女は津田に向った。
「じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの」
「ここを出たらすぐ行こうよ。身体《からだ》のためにもその方が都合がよさそうだから」
「そうね。なるべく早くいらしった方がいいわ。行くと事がきまった以上」
津田はこれでまずよしと安心した。ところへお延は不意に出た。
「あたしもいっしょに行っていいんでしょう」
気の緩《ゆる》んだ津田は急にひやりとした。彼は答える前にまず考えなければならなかった。連れて行く事は最初から問題にしていなかった。と云って、断る事はなおむずかしかった。断り方一つで、相手はどう変化するかも分らなかった。彼が何と返事をしたものだろうと思って分別《ふんべつ》するうちに大切の機は過ぎた。お延は催促した。
「ね、行ってもいいんでしょう」
「そうだね」
「いけないの」
「いけない訳もないがね……」
津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。もし猜疑《さいぎ》の眸《ひとみ》が一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。先刻《さっき》の波瀾から来た影響は彼にもう憑《の》り移っていた。彼は彼でそれを利用するよりほかに仕方がなかった。彼はすぐ「慰撫《いぶ》」の二字を思い出した。「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提《ひっ》さげて、お延に向った。
「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って貰《もら》いたいんだ。第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合がいいにきまってるからね」
「ああ嬉《うれ》しい、じゃ行くわ」
「ところがだね。……」
お延は厭《いや》な顔をした。
「ところがどうしたの」
「ところがさ。宅《うち》はどうする気かね」
「宅は時がいるから好いわ」
「好いわって、そんな子供見たいな呑気《のんき》な事を云っちゃ困るよ」
「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」
お延は続けざまに留守居《るすい》として適当な人の名を二三|挙《あ》げた。津田は拒《こば》めるだけそれを拒んだ。
「若い男は駄目《だめ》だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」
お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」
「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」
津田は断乎《だんこ》たる態度を示すと共に、考える風もして見せた。
「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」
藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空《あ》いた人は一人もなかった。
「まあよく考えて見るさ」
この辺で話を切り上げようとした津田は的《あて》が外《はず》れた。お延は掴《つか》んだ袖《そで》をなかなか放さなかった。
「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」
「悪いとは云やしないよ」
「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は解《わか》ってますわ。それより行って悪いなら悪いと判然《はっきり》云ってちょうだいよ」
せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い云訳《いいわけ》を思いついた。
「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰《もら》うんだからね。他《ひと》の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまりよくないじゃないか」
「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」
「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」
「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」
津田はまた行きつまった。そうしてまた危《あやう》い血路《けつろ》を開いた。
「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」
「あんな人に」
「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度《こんだ》遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀想《かわいそう》だよ。それにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」
お延は固《もと》より満足な顔をするはずがなかった。しかし津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事ができた。
百五十二
後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。小林に対する友誼《ゆうぎ》を満足させるため、かつはいったん約束した言責《げんせき》を果すため、津田はお延の貰《もら》って来た小切手の中《うち》から、その幾分を割《さ》いて朝鮮行の贐《はなむけ》として小林に贈る事にした。名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。小林のような横着《おうちゃく》な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅《すみ》からも出るはずはなかった。のみならず彼女はややともすると、強《し》いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗《のぞ》き込むので、津田はそのたびに少なからず冷々《ひやひや》した。
「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」
こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情|一点張《いってんばり》でそれを相手にする気色《けしき》を見せないと、彼女はもう一歩先の事
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