の後をどうする訳にも行かなかったのである。
それのみか、実をいうと、勝負は彼女にとって、一義の位をもっていなかった。本当に彼女の目指《めざ》すところは、むしろ真実相であった。夫に勝つよりも、自分の疑を晴らすのが主眼であった。そうしてその疑いを晴らすのは、津田の愛を対象に置く彼女の生存上、絶対に必要であった。それ自身がすでに大きな目的であった。ほとんど方便とも手段とも云われないほど重い意味を彼女の眼先へ突きつけていた。
彼女は前後の関係から、思量分別の許す限り、全身を挙げてそこへ拘泥《こだわ》らなければならなかった。それが彼女の自然であった。しかし不幸な事に、自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥《はる》か上にも続いていた。公平な光りを放って、可憐《かれん》な彼女を殺そうとしてさえ憚《はば》からなかった。
彼女が一口拘泥るたびに、津田は一足彼女から退《しり》ぞいた。二口拘泥れば、二足|退《しりぞ》いた。拘泥るごとに、津田と彼女の距離はだんだん増《ま》して行った。大きな自然は、彼女の小さい自然から出た行為を、遠慮なく蹂躙《じゅうりん》した。一歩ごとに彼女の目的を破壊して悔《く》いなかった。彼女は暗《あん》にそこへ気がついた。けれどもその意味を悟る事はできなかった。彼女はただそんなはずはないとばかり思いつめた。そうしてついにまた心の平静を失った。
「あたしがこれほどあなたの事ばかり考えているのに、あなたはちっとも察して下さらない」
津田はやりきれないという顔をした。
「だからおれは何にもお前を疑《うたぐ》ってやしないよ」
「当り前ですわ。この上あなたに疑ぐられるくらいなら、死んだ方がよっぽどましですもの」
「死ぬなんて大袈裟《おおげさ》な言葉は使わないでもいいやね。第一何にもないじゃないか、どこにも。もしあるなら云って御覧な。そうすればおれの方でも弁解もしようし、説明もしようけれども、初手《しょて》から根のない苦情《くじょう》じゃ手のつけようがないじゃないか」
「根はあなたのお腹《なか》の中にあるはずですわ」
「困るなそれだけじゃ。――お前小林から何かしゃくられたね。きっとそうに違ない。小林が何を云ったかそこで話して御覧よ。遠慮は要《い》らないから」
百四十八
津田の言葉つきなり様子なりからして、お延は彼の心を明暸《めいりょう》に推察する事ができた。――夫は彼の留守《るす》に小林の来た事を苦《く》にしている。その小林が自分に何を話したかをなお気に病《や》んでいる。そうしてその話の内容は、まだ判然《はっきり》掴《つか》んでいない。だから鎌《かま》をかけて自分を釣り出そうとする。
そこに明らかな秘密があった。材料として彼女の胸に蓄わえられて来たこれまでのいっさいは、疑《うたがい》もなく矛盾もなく、ことごとく同じ方角に向って注ぎ込んでいた。秘密は確実であった。青天白日のように明らかであった。同時に青天白日と同じ事で、どこにもその影を宿さなかった。彼女はそれを見つめるだけであった。手を出す術《すべ》を知らなかった。
悩乱《のうらん》のうちにまだ一分《いちぶん》の商量《しょうりょう》を余した利巧《りこう》な彼女は、夫のかけた鎌を外《はず》さずに、すぐ向うへかけ返した。
「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな聴《き》いてしまったんです。だから隠したってもう駄目《だめ》よ。あなたもずいぶんひどい方《かた》ね」
彼女の云《い》い草《ぐさ》はほとんどでたらめに近かった。けれどもそれを口にする気持からいうと、全くの真剣沙汰《しんけんざた》と何の異《こと》なるところはなかった。彼女は熱を籠《こ》めた語気で、津田を「ひどい方《かた》」と呼ばなければならなかった。
反響はすぐ夫の上に来た。津田はこのでたらめの前に退避《たじ》ろぐ気色《けしき》を見せた。お秀の所で遣《や》り損《そく》なった苦《にが》い経験にも懲《こ》りず、また同じ冒険を試みたお延の度胸は酬《むく》いられそうになった。彼女は一躍して進んだ。
「なぜこうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」
「こうならない前」という言葉は曖昧《あいまい》であった。津田はその意味を捕捉《ほそく》するに苦しんだ。肝心《かんじん》のお延にはなお解らなかった。だから訊《き》かれても説明しなかった。津田はただぼんやりと念を押した。
「まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、やめても構わないが」
お延は意外な顔をした。
「誰がそんな無理をいうもんですか。会社の方の都合《つごう》がついて、病後の身体《からだ》を回復する事ができれば、それほど結構な事はないじゃありませんか。それが悪いなんてむちゃくちゃを云《い》い募《つの》るあたしだと思っていらっしゃるの、馬鹿らしい。ヒステリーじゃあるまいし」
「じゃ行ってもいいかい」
「よござんすとも」と云った時、お延は急に袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出して顔へ当てたと思うと、しくしく泣き出した。あとの言葉は、啜《すす》り上げる声の間から、句をなさずに、途切《とぎ》れ途切れに、毀《こわ》れ物のような形で出て来た。
「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて……」
津田はようやく安心した。けれどもお延にはまだ先があった。発作《ほっさ》が静まると共に、その先は比較的すらすら出た。
「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を維持《いじ》して行きたいと思うんです。もしそれを毀損《きそん》されると……」
お延はこれだけ云いかけてまた泣き出した。あとはまた切れ切れになった。
「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても……面目《めんぼく》なくて、合わす顔がなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。……それをあなたは傍《そば》で見ていながら、……すまして……すまして……知らん顔をしていらっしゃるんです」
津田は急に口を開いた。
「お秀がお前を馬鹿にしたって? いつ? 今日お前が行った時にかい」
津田は我知らずとんでもない事を云ってしまった。お延が話さない限り、彼はその会見を知るはずがなかったのである。お延の眼ははたして閃《ひら》めいた。
「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、あなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか」
「お秀が電話をかけたよ」という返事がすぐ津田の咽喉《のど》から外へ滑《すべ》り出さなかった。彼は云おうか止《よ》そうかと思って迷った。けれども時に一寸《いっすん》の容赦《ようしゃ》もなかった。反吐《へど》もどしていればいるほど形勢は危《あや》うくなるだけであった。彼はほとんど行きつまった。しかし間髪《かんはつ》を容《い》れずという際《きわ》どい間際《まぎわ》に、旨《うま》い口実が天から降って来た。
「車夫《くるまや》が帰って来てそう云ったもの。おおかたお時が車夫に話したんだろう」
幸いお延がお秀の後を追《おっ》かけて出た事は、下女にも解っていた。偶発の言訳が偶中《ぐうちゅう》の功《こう》を奏した時、津田は再度の胸を撫《な》で下《おろ》した。
百四十九
遮二無二《しゃにむに》津田を突き破ろうとしたお延は立ちどまった。夫がそれほど自分をごまかしていたのでないと考える拍子《ひょうし》に気が抜けたので、一息《ひといき》に進むつもりの彼女は進めなくなった。津田はそこを覘《ねら》った。
「お秀なんぞが何を云ったって構わないじゃないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」
お延は答えた。
「そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。あなたはあなた、小林は小林なんだから」
「そりゃ構わないよ。お前さえしっかりしていてくれれば。ただ疑ぐりだの誤解だのを起して、それをむやみに振り廻されると迷惑するから、こっちだって黙っていられなくなるだけさ」
「あたしだって同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、あなたさえしっかりしていて下されば、苦《く》になるはずはないんです。それを肝心《かんじん》のあなたが……」
お延は行きつまった。彼女には明暸《めいりょう》な事実がなかった。したがって明暸な言葉が口へ出て来なかった。そこを津田がまた一掬《ひとすく》い掬った。
「おおかたお前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。それよりか、もう少しおれに憑《よ》りかかって安心していたらいいじゃないか」
お延は急に大きな声を揚げた。
「あたしは憑りかかりたいんです。安心したいんです。どのくらい憑りかかりたがっているか、あなたには想像がつかないくらい、憑りかかりたいんです」
「想像がつかない?」
「ええ、まるで想像がつかないんです。もしつけば、あなたも変って来なくっちゃならないんです。つかないから、そんなに澄ましていらっしゃられるんです」
「澄ましてやしないよ」
「気の毒だとも可哀相《かわいそう》だとも思って下さらないんです」
「気の毒だとも、可哀相だとも……」
これだけ繰り返した津田はいったん塞《つか》えた。その後《あと》で継《つ》ぎ足《た》した文句はむしろ蹣跚《まんさん》として揺《ゆら》めいていた。
「思って下さらないたって。――いくら思おうと思っても。――思うだけの因縁《いんねん》があれば、いくらでも思うさ。しかしなけりゃ仕方がないじゃないか」
お延の声は緊張のために顫《ふる》えた。
「あなた。あなた」
津田は黙っていた。
「どうぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思って安心させて下さい。あなた以外にあたしは憑《よ》りかかり所のない女なんですから。あなたに外《はず》されると、あたしはそれぎり倒れてしまわなければならない心細い女なんですから。だからどうぞ安心しろと云って下さい。たった一口でいいから安心しろと云って下さい」
津田は答えた。
「大丈夫だよ。安心おしよ」
「本当?」
「本当に安心おしよ」
お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。
「じゃ話してちょうだい。どうぞ話してちょうだい。隠さずにみんなここで話してちょうだい。そうして一思いに安心させてちょうだい」
津田は面喰《めんくら》った。彼の心は波のように前後へ揺《うご》き始めた。彼はいっその事思い切って、何もかもお延の前に浚《さら》け出《だ》してしまおうかと思った。と共に、自分はただ疑がわれているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。もしお延が事実を知っているなら、ここまで押して来て、それを彼の顔に叩《たた》きつけないはずはあるまいとも考えた。
彼は気の毒になった。同時に逃げる余地は彼にまだ残っていた。道義心と利害心が高低《こうてい》を描いて彼の心を上下《うえした》へ動かした。するとその片方に温泉行の重みが急に加わった。約束を断行する事は吉川夫人に対する彼の義務であった。必然から起る彼の要求でもあった。少くともそれを済《す》ますまで打ち明けずにいるのが得策だという気が勝を制した。
「そんなくだくだしい事を云ってたって、お互いに顔を赤くするだけで、際限がないから、もう止《よ》そうよ。その代りおれが受け合ったらいいだろう」
「受け合うって」
「受け合うのさ。お前の体面に対して、大丈夫だという証書を入れるのさ」
「どうして」
「どうしてって、ほかに証文の入れようもないから、ただ口で誓うのさ」
お延は黙っていた。
「つまりお前がおれを信用すると云いさえすれば、それでいいんだ。万一の場合が出て来
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