の時間には、もう顔を出さなかった。
「今日は当直だから晩には来られないんだそうです」
彼女はこう云って、不断のような忙がしい様子をどこにも見せずに、ゆっくり津田の膳《ぜん》の前に坐《すわ》っていた。
退屈凌《たいくつしの》ぎに好い相手のできた気になった津田の舌《した》には締りがなかった。彼は面白半分いろいろな事を訊《き》いた。
「君の国はどこかね」
「栃木県です」
「なるほどそう云われて見ると、そうかな」
「名前は何と云ったっけね」
「名前は知りません」
看護婦はなかなか名前を云わなかった。津田はそこに発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して訊《き》いた。
「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。いいかね」
「ええよござんす」
彼女の名前の頭文字はつ[#「つ」に白丸傍点]であった。
「露《つゆ》か」
「いいえ」
「なるほど露《つゆ》じゃあるまいな。じゃ土《つち》か」
「いいえ」
「待ちたまえよ、露《つゆ》でもなし、土《つち》でもないとすると。――ははあ、解《わか》った。つや[#「つや」に白丸傍点]だろう。でなければ、常《つね》か」
津田はいくらでもでたらめを云った。云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。笑うたびに、津田はまた彼女を追窮《ついきゅう》した。しまいに彼女の名がつき[#「つき」に白丸傍点]だと判然《わか》った時、彼はこの珍らしい名をまだ弄《もてあそ》んだ。
「お月《つき》さんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰が命《つ》けた」
看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。
「あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか」
「あてて御覧」
看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた後《あと》で云った。
「お延《のぶ》さんでしょう」
彼女は旨《うま》くあてた。というよりも、いつの間にかお延の名を聴いて覚えていた。
「お月さんはどうも油断がならないなあ」
津田がこう云って興じているところへ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、ふり返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。
「ああ、とうとういらしった」
看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐ったお延はたちまち津田を見た。
「来ないと思っていらしったんでしょう」
「いやそうでもない。しかし今日はもう遅いからどうかとも思っていた」
津田の言葉に偽《いつわ》りはなかった。お延にはそれを認めるだけの眼があった。けれどもそうすれば事の矛盾はなお募《つの》るばかりであった。
「でも先刻《さっき》手紙をお寄こしになったのね」
「ああやったよ」
「今日来ちゃいけないと書いてあるのね」
「うん、少し都合《つごう》の悪い事があったから」
「なぜあたしが来ちゃ御都合が悪いの」
津田はようやく気がついた。彼はお延の様子を見ながら答えた。
「なに何でもないんだ。下らない事なんだ」
「でも、わざわざ使に持たせてお寄こしになるくらいだから、何かあったんでしょう」
津田はごまかしてしまおうとした。
「下らない事だよ。何でまたそんな事を気にかけるんだ。お前も馬鹿だね」
慰藉《いしゃ》のつもりで云った津田の言葉はかえって反対の結果をお延の上に生じた。彼女は黒い眉《まゆ》を動かした。無言のまま帯の間へ手を入れて、そこから先刻の書翰《しょかん》を取り出した。
「これをもう一遍見てちょうだい」
津田は黙ってそれを受け取った。
「別段何にも書いちゃないじゃないか」と云った時、彼は腹はようやく彼の口を否定した。手紙は簡単であった。けれどもお延の疑いを惹《ひ》くには充分であった。すでに疑われるだけの弱味をもっている彼は、やり損《そく》なったと思った。
「何にも書いてないから、その理由《わけ》を伺うんです」とお延は云った。
「話して下すってもいいじゃありませんか。せっかく来たんだから」
「お前はそれを聴《き》きに来たのかい」
「ええ」
「わざわざ?」
「ええ」
お延はどこまで行っても動かなかった。相手の手剛《てごわ》さを悟《さと》った時、津田は偶然好い嘘《うそ》を思いついた。
「実は小林が来たんだ」
小林の二字はたしかにお延の胸に反響した。しかしそれだけではすまなかった。彼はお延を満足させるために、かえってそこを説明してやらなければならなくなった。
百四十六
「小林なんかに逢《あ》うのはお前も厭《いや》だろうと思ってね。それで気がついたからわざわざ知らしてやったんだよ」
こう云ってもお延はまだ得心した様子を見せなかったので、津田はやむをえず慰藉《いしゃ》の言葉を延ばさなければならなかった。
「お前が厭でないにしたところで、おれが厭なんだ、あんな男にお前を合わせるのは。それにあいつがまたお前に聴かせたくないような厭な用事を持ち込んで来たもんだからね」
「あたしの聴いて悪い用事? じゃお二人の間の秘密なの?」
「そんな訳のものじゃないよ」と云った津田は、自分の上に寸分の油断なく据《す》えられたお延の細い眼を見た時に、周章《あわ》てて後を付け足した。
「また金を強乞《せび》りに来たんだ。ただそれだけさ」
「じゃあたしが聴《き》いてなぜ悪いの」
「悪いとは云やしない。聴かせたくないというまでさ」
「するとただ親切ずくで寄こして下すった手紙なのね、これは」
「まあそうだ」
今まで夫に見入っていたお延の細い眼がなお細くなると共に、微《かす》かな笑が唇《くちびる》を洩《も》れた。
「まあありがたい事」
津田は澄ましていられなくなった。彼は用意を欠いた文句を択《よ》り除《の》ける余裕を失った。
「お前だって、あんな奴《やつ》に会うのは厭《いや》なんじゃないか」
「いいえ、ちっとも」
「そりゃ嘘《うそ》だ」
「どうして嘘なの」
「だって小林は何かお前に云ったそうじゃないか」
「ええ」
「だからさ。それでお前もあいつに会うのは厭だろうと云うんだ」
「じゃあなたはあたしが小林さんからどんな事を聴いたか知っていらっしゃるの」
「そりゃ知らないよ。だけどどうせあいつのことだから碌《ろく》な事は云やしなかろう。いったいどんな事を云ったんだ」
お延は口へ出かかった言葉を殺してしまった。そうして反問した。
「ここで小林さんは何とおっしゃって」
「何とも云やしないよ」
「それこそ嘘です。あなたは隠していらっしゃるんです」
「お前の方が隠しているんじゃないかね。小林から好い加減な事を云われて、それを真《ま》に受けていながら」
「そりゃ隠しているかも知れません。あなたが隠し立てをなさる以上、あたしだって仕方がないわ」
津田は黙った。お延も黙った。二人とも相手の口を開くのを待った。しかしお延の辛防《しんぼう》は津田よりも早く切れた。彼女は急に鋭どい声を出した。
「嘘よ、あなたのおっしゃる事はみんな嘘よ。小林なんて人はここへ来た事も何にもないのに、あなたはあたしをごまかそうと思って、わざわざそんな拵《こしら》え事をおっしゃるのよ」
「拵えたって、別におれの利益になる訳でもなかろうじゃないか」
「いいえほかの人が来たのを隠すために、小林なんて人を、わざわざ引張り出すにきまってるわ」
「ほかの人? ほかの人とは」
お延の眼は床の上に載せてある楓《かえで》の盆栽《ぼんさい》に落ちた。
「あれはどなたが持っていらしったんです」
津田は失敗《しくじ》ったと思った。なぜ早く吉川夫人の来た事を自白してしまわなかったかと後悔した。彼が最初それを口にしなかったのは分別《ふんべつ》の結果であった。話すのに訳はなかったけれども、夫人と相談した事柄の内容が、お延に対する彼を自然臆病にしたので、気の咎《とが》める彼は、まあ遠慮しておく方が得策だろうと思案したのである。
盆栽をふり返った彼が吉川夫人の名を云おうとして、ちょっと口籠《くちごも》った時、お延は機先を制した。
「吉川の奥さんがいらしったじゃありませんか」
津田は思わず云った。
「どうして知ってるんだ」
「知ってますわ。そのくらいの事」
お延の様子に注意していた津田はようやく度胸を取り返した。
「ああ来たよ。つまりお前の予言《よげん》があたった訳になるんだ」
「あたしは奥さんが電車に乗っていらしった事までちゃんと知ってるのよ」
津田はまた驚ろいた。ことによると自動車が大通りに待っていたのかも知れないと思っただけで、彼は夫人の乗物にそれ以上細かい注意を払わなかった。
「お前どこかで会ったのかい」
「いいえ」
「じゃどうして知ってるんだ」
お延は答える代りに訊《き》き返した。
「奥さんは何しにいらしったんです」
津田は何気なく答えた。
「そりゃ今話そうと思ってたところだ。――しかし誤解しちゃ困るよ。小林はたしかに来たんだからね。最初に小林が来て、その後へ奥さんが来たんだ。だからちょうど入れ違になった訳だ」
百四十七
お延は夫より自分の方が急《せ》き込んでいる事に気がついた。この調子で乗《の》しかかって行ったところで、夫はもう圧《お》し潰《つぶ》されないという見切《みきり》をつけた時、彼女は自分の破綻《ぼろ》を出す前に身を翻《ひる》がえした。
「そう、そんならそれでもいいわ。小林さんが来たって来なくったって、あたしの知った事じゃないんだから。その代り吉川の奥さんの用事を話して聴《き》かしてちょうだい。無論ただのお見舞でない事はあたしにも判ってるけれども」
「といったところで、大した用事で来た訳でもないんだよ。そんなに期待していると、また聴いてから失望するかも知れないから、ちょっと断っとくがね」
「構いません、失望しても。ただありのままを伺いさえすれば、それで念晴《ねんばら》しになるんだから」
「本来が見舞で、用事はつけたりなんだよ、いいかね」
「いいわ、どっちでも」
津田は夫人の齎《もたら》した温泉行の助言《じょごん》だけをごく淡泊《あっさ》り話した。お延にお延流の機略《きりゃく》がある通り、彼には彼相当の懸引《かけひき》があるので、都合の悪いところを巧みに省略した、誰の耳にも真卒《しんそつ》で合理的な説明がたやすく彼の口からお延の前に描き出された。彼女は表向《おもてむき》それに対して一言《いちごん》の非難を挟《さしは》さむ余地がなかった。
ただ落ちつかないのは互の腹であった。お延はこの単純な説明を透《とお》して、その奥を覗《のぞ》き込もうとした。津田は飽《あ》くまでもそれを見せまいと覚悟した。極《きわ》めて平和な暗闘が度胸比べと技巧比べで演出されなければならなかった。しかし守る夫に弱点がある以上、攻める細君にそれだけの強味が加わるのは自然の理であった。だから二人の天賦《てんぷ》を度外において、ただ二人の位地《いち》関係から見ると、お延は戦かわない先にもう優者であった。正味《しょうみ》の曲直を標準にしても、競《せ》り合《あ》わない前に、彼女はすでに勝っていた。津田にはそういう自覚があった。お延にもこれとほぼ同じ意味で大体の見当《けんとう》がついていた。
戦争は、この内部の事実を、そのまま表面へ追い出す事ができるかできないかで、一段落《いちだんらく》つかなければならない道理であった。津田さえ正直ならばこれほどたやすい勝負はない訳でもあった。しかしもし一点不正直なところが津田に残っているとすると、これほどまた落し悪《にく》い城はけっしてないという事にも帰着した。気の毒なお延は、否応《いやおう》なしに津田を追い出すだけの武器をまだ造り上げていなかった。向うに開門を逼《せま》るよりほかに何の手段も講じ得ない境遇にある現在の彼女は、結果から見てほとんど無能力者と択《えら》ぶところがなかった。
なぜ心に勝っただけで、彼女は美くしく切り上げられないのだろうか。なぜ凱歌《がいか》を形の上にまで運び出さなければ気がすまないのだろうか。今の彼女にはそんな余裕がなかったのである。この勝負以上に大事なものがまだあったのである。第二第三の目的をまだ後《あと》に控えていた彼女は、ここを突き破らなければ、そ
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