内面から看破《みやぶ》る機会に出会った事のない津田にはまたその言葉を疑う資格がなかった。彼は大体の上で夫人の実意を信じてかかった。しかし実意の作用に至ると、勢い危惧《きぐ》の念が伴なわざるを得なかった。
「心配する事があるもんですか。細工はりゅうりゅう仕上《しあげ》を御覧《ごろ》うじろって云うじゃありませんか」
 いくら津田が訊《き》いても詳しい話しをしなかった夫人は、こんな高を括《くく》った挨拶《あいさつ》をした後で、教えるように津田に云った。
「あの方《かた》は少し己惚《おのぼ》れ過ぎてるところがあるのよ。それから内側と外側がまだ一致しないのね。上部《うわべ》は大変|鄭寧《ていねい》で、お腹《なか》の中はしっかりし過ぎるくらいしっかりしているんだから。それに利巧《りこう》だから外へは出さないけれども、あれでなかなか慢気《まんき》が多いのよ。だからそんなものを皆《み》んな取っちまわなくっちゃ……」
 夫人が無遠慮な評をお延に加えている最中に、階子段《はしごだん》の中途で足を止《と》めた看護婦の声が二人の耳に入った。
「吉川の奥さんへ堀さんとおっしゃる方から電話でございます」
 夫人は「はい」と応じてすぐ立ったが、敷居の所で津田を顧みた。
「何の用でしょう」
 津田にも解らなかったその用を足すために下へ降りて行った夫人は、すぐまた上って来ていきなり云った。
「大変大変」
「何が? どうかしたんですか」
 夫人は笑いながら落ちついて答えた。
「秀子さんがわざわざ注意してくれたの」
「何をです」
「今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。帰りに病院の方へ廻るかも知れないから、ちょっとお知らせするって云うのよ。今秀子さんの門を出たばかりのところだって。――まあ好かった。悪口でも云ってるところへ来られようもんなら、大恥《おおはじ》を掻《か》かなくっちゃならない」
 いったん坐《すわ》った夫人は、間もなくまた立った。
「じゃ私《わたし》はもうお暇《いとま》にしますからね」
 こんな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女にとってもきまりが好くないらしかった。
「いらっしゃらないうちに、早く退却しましょう。どうぞよろしく」
 一言《ひとこと》の挨拶《あいさつ》を彼女に残したまま、夫人はついに病室を出た。

        百四十三

 この時お延の足はすでに病院に向って動いていた。
 堀の宅《うち》から医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、そこに丁字形《ていじけい》を描いている大きな往来をまた一つ向うへ越さなければならなかった。彼女がこの曲り角へかかった時、北から来た一台の電車がちょうど彼女の前、方角から云えば少し筋違《すじかい》の所でとまった。何気なく首を上げた彼女は見るともなしにこちら側《がわ》の窓を見た。すると窓硝子《まどガラス》を通して映る乗客の中に一人の女がいた。位地《いち》の関係から、お延はただその女の横顔の半分もしくは三分の一を見ただけであったが、見ただけですぐはっと思った。吉川夫人じゃないかという気がたちまち彼女の頭を刺戟《しげき》したからである。
 電車はじきに動き出した。お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその後影《うしろかげ》をしばらく見送ったあとで、通りを東側へ横切った。
 彼女の歩く往来はもう横町だけであった。その辺の地理に詳しい彼女は、いくつかの小路《こうじ》を右へ折れたり左へ曲ったりして、一番近い道をはやく病院へ行き着くつもりであった。けれども電車に会った後《あと》の彼女の足は急に重くなった。距離にすればもう二三丁という所まで来た時、彼女は病院へ寄らずに、いったん宅《うち》へ帰ろうかと思い出した。
 彼女の心は堀の門を出た折からすでに重かった。彼女はむやみにお秀を突ッ付いて、かえってやり損《そく》なった不快を胸に包んでいた。そこには大事を明らさまに握る事ができずに、裏からわざわざ匂《にお》わせられた羽痒《はが》ゆさがあった。なまじいそれを嗅《か》ぎつけた不安の色も、前よりは一層濃く染めつけられただけであった。何よりも先だつのは、こっちの弱点を見抜かれて、逆《さかさ》まに相手から翻弄《ほんろう》されはしなかったかという疑惑であった。
 お延はそれ以上にまだ敏《さと》い気を遠くの方まで廻していた。彼女は自分に対して仕組まれた謀計《はかりごと》が、内密にどこかで進行しているらしいとまで癇《かん》づいた。首謀者は誰にしろ、お秀がその一人である事は確《たしか》であった。吉川夫人が関係しているのも明かに推測された。――こう考えた彼女は急に心細くなった。知らないうちに重囲《じゅうい》のうちに自分を見出《みいだ》した孤軍《こぐん》のような心境が、遠くから彼女を襲って来た。彼女は周囲《あたり》を見廻した。しかしそこには夫を除いて依《たよ》りになるものは一人もいなかった。彼女は何をおいてもまず津田に走らなければならなかった。その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。どんな事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。
 その心理作用が今|喰《く》いとめられなければならなくなった時、通りで会った電車の影をお延は腹の底から呪《のろ》った。もし車中の人が吉川夫人であったとすれば、もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行ったとすれば、もし見舞に行ったついでに、――。いかに怜俐《りこう》なお延にも考える自由の与えられていないその後《あと》は容易に出て来なかった。けれども結果は一つであった。彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移った。彼女は何がなしに、この三人を巴《ともえ》のように眺め始めた。
「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」
 今まで避難場のつもりで夫の所へ駈け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。
「この分じゃ、ただ行ったっていけない。行ってどうしよう」
 彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気がついた。するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく彼女に見え出して来た。夫婦のくせに、そんなよそ行《いき》の支度なんぞして何になるという非難をどこにも聴《き》かなかったので、いったん宅《うち》へ帰って、よく気を落ちつけて、それからまた出直すのが一番の上策だと思い極《きわ》めた彼女は、ついにもう五六分で病院へ行き着こうという小路《こうじ》の中ほどから取って返した。そうして柳の木の植《うわ》っている大通りから賑《にぎ》やかな往来まで歩いてすぐ電車へ乗った。

        百四十四

 お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。電車から降りて一丁ほどの所を、身に染《し》みるような夕暮の靄《もや》に包まれた後の彼女には、何よりも火鉢《ひばち》の傍《はた》が恋しかった。彼女はコートを脱ぐなりまずそこへ坐《すわ》って手を翳《かざ》した。
 しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。手紙の文句は固《もと》より簡単であった。彼女は封を切る手数とほとんど同じ時間で、それを読み下す事ができた。けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。わずか三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。一度に外から持って帰った気分に火を点《つ》けたその書翰《しょかん》の前に彼女の心は躍《おど》った。
「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」
 それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間に関《かま》う余裕さえなかった。彼女は台所から膳《ぜん》を運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。
「御飯は帰ってからにするよ」
 彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また小路《こうじ》の角でとまった。彼女はなぜだか病院へ行くに堪《た》えないような気がした。この様子では行ったところで、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らきかけた。
「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」
 彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の宅《うち》であった。いっそ当初の計画をやめて、叔父《おじ》の所へでも行こうかと考えついた彼女は、考えつくや否や、すぐその方面に横《よこた》わる困難をも想像した。岡本へ行って相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝《さら》け出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。叔父と叔母の前に、自分の眼が利《き》かなかった自白を綺麗《きれい》にしなければならなかった。お延はまだそれほどの恥を忍ぶまでに事件は逼《せま》っていないと考えた。復活の見込が充分立たないのに、酔興《すいきょう》で自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑《けいべつ》するところであった。
 彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時|床《とこ》の上に起き上って、平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。先刻《さっき》お秀から電話のかかった時、すでにお延の来訪を予想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗《あん》に心の調子を整えていたところが、その細君は途中から引き返してしまったので、軽い失望の間に、夕食《ゆうめし》の時間が来るまで、待ち草臥《くたび》れたせいか、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話しかけた。
「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」
 看護婦は体《なり》の小《ち》さい血色の好くない女であった。しかし年頃はどうしても津田に鑑定のつかない妙な顔をしていた。いつでも白い服を着けているのが、なおさら彼女を普通の女の群《むれ》から遠ざけた。津田はつねに疑った。――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上《かたあげ》を付けているだろうか、または除《と》っているだろうか。彼はいつか真面目《まじめ》にこんな質問を彼女にかけて見た事があった。その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、津田はおおよその見当を立てたくらいであった。
 膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。
「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ後《あと》を付け足した。
「今日は奥さんはお見えになりませんね」
「うん、来ないよ」
 津田の口の中にはもう焦《こ》げた麺麭《パン》がいっぱい入っていた。彼はそれ以上何も云う事ができなかった。しかし看護婦の方は自由であった。
「その代り外《ほか》のお客さまがいらっしゃいましたね」
「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶん肥《ふと》ってるね、あの奥さんは」
 看護婦が悪口《わるくち》の相槌《あいづち》を打つ気色《けしき》を見せないので、津田は一人でしゃべらなければならなかった。
「もっと若い綺麗《きれい》な人が、どんどん見舞に来てくれると病気も早く癒《なお》るんだがな」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲《ひや》かし返された。
「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽど間《ま》がいいと見えて」
 彼女は小林の来た事を知らないらしかった。
「昨日《きのう》いらしった奥さんは大変お綺麗ですね」
「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」
 看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。

        百四十五

 それは看護婦にとって意外な儲《もう》け日《び》であった。下痢《げり》の気味でいつもの通り診察場に出られなかった医者に、代理を頼まれた彼の友人は、午前の都合を付けてくれただけで、午後から夜へかけて
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