津田を自分の思うところへ押し込めた。

        百四十

 準備はほぼ出来上った。要点はそろそろ津田の前に展開されなければならなかった。夫人は機を見てしだいにそこへ入って行った。
「そんならもっと男らしくしちゃどうです」という漠然《ばくぜん》たる言葉が、最初に夫人の口を出た。その時津田はまたかと思った。先刻《さっき》から「男らしくしろ」とか「男らしくない」とかいう文句を聴《き》かされるたびに、彼は心の中で暗《あん》に夫人を冷笑した。夫人の男らしいという意味ははたしてどこにあるのだろうと疑ぐった。批判的な眼を拭《ぬぐ》って見るまでもなく、彼女は自分の都合ばかりを考えて、津田をやり込めるために、勝手なところへやたらにこの言葉を使うとしか解釈できなかった。彼は苦笑しながら訊《き》いた。
「男らしくするとは?――どうすれば男らしくなれるんですか」
「あなたの未練を晴らすだけでさあね。分り切ってるじゃありませんか」
「どうして」
「全体どうしたら晴らされると思ってるんです、あなたは」
「そりゃ私には解りません」
 夫人は急に勢《きお》い込んだ。
「あなたは馬鹿ね。そのくらいの事が解らないでどうするんです。会って訊くだけじゃありませんか」
 津田は返事ができなかった。会うのがそれほど必要にしたところで、どんな方法でどこでどうして会うのか。その方が先決問題でなければならなかった。
「だから私《わたし》が今日わざわざここへ来たんじゃありませんか」と夫人が云った時、津田は思わず彼女の顔を見た。
「実は疾《と》うから、あなたの料簡《りょうけん》をよく伺って見たいと思ってたところへね、今朝《けさ》お秀さんがあの事で来たもんだから、それでちょうど好い機会だと思って出て来たような訳なんですがね」
 腹に支度の整わない津田の頭はただまごまごするだけであった。夫人はそれを見澄《みすま》してこういった。
「誤解しちゃいけませんよ。私は私、お秀さんはお秀さんなんだから。何もお秀さんに頼まれて来たからって、きっとあの方《かた》の肩ばかり持つとは限らないぐらいは、あなたにだって解るでしょう。先刻《さっき》も云った通り、私はこれでもあなたの同情者ですよ」
「ええそりゃよく心得ています」
 ここで問答に一区切《ひとくぎり》を付けた夫人は、時を移さず要点に達する第二の段落に這入《はい》り込んで行った。
「清子さんが今どこにいらっしゃるか、あなた知ってらっしって」
「関の所にいるじゃありませんか」
「そりゃ不断の話よ。私《わたし》のいうのは今の事よ。今どこにいらっしゃるかっていうのよ。東京か東京でないか」
「存じません」
「あてて御覧なさい」
 津田はあてっこをしたってつまらないという風をして黙っていた。すると思いがけない場所の名前が突然夫人の口から点出された。一日がかりで東京から行かれるかなり有名なその温泉場の記憶は、津田にとってもそれほど旧《ふる》いものではなかった。急にその辺《あたり》の景色《けしき》を思い出した彼は、ただ「へええ」と云ったぎり、後をいう智恵が出なかった。
 夫人は津田のために親切な説明を加えてくれた。彼女の云うところによると、目的の人は静養のため、当分そこに逗留《とうりゅう》しているのであった。夫人は何で静養がその人に必要であるかをさえ知っていた。流産後の身体《からだ》を回復するのが主眼だと云って聴《き》かせた夫人は、津田を見て意味ありげに微笑した。津田は腹の中でほぼその微笑を解釈し得たような気がした。けれどもそんな事は、夫人にとっても彼にとっても、目前の問題ではなかった。一口の批評を加える気にもならなかった彼は、黙って夫人の聴き手になるつもりでおとなしくしていた。同時に夫人は第三の段落に飛び移った。
「あなたもいらっしゃいな」
 津田の心はこの言葉を聴く前からすでに揺《うご》いていた。しかし行こうという決心は、この言葉を聴いた後《あと》でもつかなかった。夫人は一煽《ひとあお》りに煽った。
「いらっしゃいよ。行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」
「それはそうです」
「あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの気兼《きがね》だのって、なまじ余計なものを荷にし出すと、事が面倒になるだけですわ。それにあなたの病気には、ここを出た後で、ああいう所へちょっと行って来る方がいいんです。私に云わせれば、病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。だから是非いらっしゃい。行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。そうして男らしく未練の片《かた》をつけて来るんです」
 夫人は旅費さえ出してやると云って津田を促《うな》がした。

        百四十一

 旅費を貰《もら》って、勤向《つとめむき》の都合をつけて貰って、病後の身体を心持の好い温泉場で静養するのは、誰にとっても望ましい事に違なかった。ことに自己の快楽を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多《めった》にない誂《あつら》え向《む》きの機会であった。彼に云わせると、見す見すそれを取《と》り外《はず》すのは愚《ぐ》の極であった。しかしこの場合に附帯している一種の条件はけっして尋常のものではなかった。彼は顧慮した。
 彼を引きとめる心理作用の性質は一目暸然《いちもくりょうぜん》であった。けれども彼はその働きの顕著な力に気がついているだけで、その意味を返照《へんしょう》する遑《いとま》がなかった。この点においても夫人の方が、彼自身よりもかえってしっかりした心理の観察者であった。二つ返事で断行を誓うと思った津田のどこか渋っている様子を見た夫人はこう云った。
「あなたは内心行きたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それが私《わたし》に云わせると、男らしくないあなたの一番悪いところなんですよ」
 男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。
「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」
「その考える癖があなたの人格に祟《たた》って来るんです」
 津田は「へえ?」と云って驚ろいた。夫人は澄ましたものであった。
「女は考えやしませんよ。そんな時に」
「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」
 この答えを聴《き》いた時、夫人の態度が急に嶮《けわ》しくなった。
「そんな生意気《なまいき》な口応《くちごた》えをするもんじゃありません。言葉だけで他《ひと》をやり込《こ》めればどこがどうしたというんです、馬鹿らしい。あなたは学校へ行ったり学問をしたりした方《かた》のくせに、まるで自分が見えないんだからお気の毒よ。だから畢竟《ひっきょう》清子さんに逃げられちまったんです」
 津田はまた「えッ?」と云った。夫人は構わなかった。
「あなたに分らなければ、私が云って聴《き》かせて上げます。あなたがなぜ行きたがらないか、私にはちゃんと分ってるんです。あなたは臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです」
「そうじゃありません。私は……」
「お待ちなさい。――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。しかし出るのは見識《けんしき》に拘《かか》わるというんでしょう。私から云えば、そう見識ばるのが取りも直さずあなたの臆病なところなんですよ、好《よ》ござんすか。なぜと云って御覧なさい。そんな見識はただの見栄《みえ》じゃありませんか。よく云ったところで、上《うわ》っ面《つら》の体裁《ていさい》じゃありませんか。世間に対する手前と気兼《きがね》を引いたら後に何が残るんです。花嫁さんが誰も何とも云わないのに、自分できまりを悪くして、三度の御飯を控えるのと同《おん》なじ事よ」
 津田は呆気《あっけ》に取られた。夫人の小言《こごと》はまだ続いた。
「つまり色気が多過ぎるから、そんな入《い》らざるところに我《が》を立てて見たくなるんでしょう。そうしてそれがあなたの己惚《おのぼれ》に生れ変って変なところへ出て来るんです」
 津田は仕方なしに黙っていた。夫人は容赦なく一歩進んでその己惚を説明した。
「あなたはいつまでも品《ひん》よく黙っていようというんです。じっと動かずにすまそうとなさるんです。それでいて内心ではあの事が始終《しじゅう》苦《く》になるんです。そこをもう少し押して御覧なさいな。おれがこうしているうちには、今に清子の方から何か説明して来るだろう来るだろうと思って――」
「そんな事を思ってるもんですか、なんぼ私《わたくし》だって」
「いえ、思っているのと同《おん》なじだというのです。実際どこにも変りがなければ、そう云われたってしようがないじゃありませんか」
 津田にはもう反抗する勇気がなかった。機敏な夫人はそこへつけ込んだ。
「いったいあなたはずうずうしい性質《たち》じゃありませんか。そうしてずうずうしいのも世渡りの上じゃ一徳《いっとく》だぐらいに考えているんです」
「まさか」
「いえ、そうです。そこがまだ私《わたし》に解らないと思ったら、大間違です。好いじゃありませんか、ずうずうしいで、私はずうずうしいのが好きなんだから。だからここで持前のずうずうしいところを男らしく充分発揮なさいな。そのために私がせっかく骨を折って拵《こしら》えて来たんだから」
「ずうずうしさの活用ですか」と云った津田は言葉を改めた。
「あの人は一人で行ってるんですか」
「無論一人です」
「関は?」
「関さんはこっちよ。こっちに用があるんですもの」
 津田はようやく行く事に覚悟をきめた。

        百四十二

 しかし夫人と津田の間には結末のつかないまだ一つの問題が残っていた。二人はそこをふり返らないで話を切り上げる訳に行かなかった。夫人が踵《きびす》を回《めぐ》らさないうちに、津田は帰った。
「それで私が行くとしたら、どうなるんです、先刻《さっき》おっしゃった事は」
「そこです。そこを今云おうと思っていたのよ。私に云わせると、これほど好い療治はないんですがね。どうでしょう、あなたのお考えは」
 津田は答えなかった。夫人は念を押した。
「解ったでしょう。後は云わなくっても」
 夫人の意味は説明を待たないでもほぼ津田に呑《の》み込めた。しかしそれをどんな風にして、お延の上に影響させるつもりなのか、そこへ行くと彼には確《しか》とした観念がなかった。夫人は笑い出した。
「あなたは知らん顔をしていればいいんですよ。後は私の方でやるから」
「そうですか」と答えた津田の頭には疑惑があった。後《あと》を挙《あ》げて夫人に一任するとなると、お延の運命を他人に委《ゆだ》ねると同じ事であった。多少夫人の手腕を恐れている彼は危ぶんだ。何をされるか解らないという掛念《けねん》に制せられた。
「お任せしてもいいんですが、手段や方法が解っているなら伺っておく方が便利かと思います」
「そんな事はあなたが知らないでもいいのよ。まあ見ていらっしゃい、私《わたし》がお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せるから」
 津田の眼に映るお延は無論不完全であった。けれども彼の気に入らない欠点が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかった。それをちゃんぽんに混同しているらしい夫人は、少くとも自分に都合のいいお延を鍛《きた》え上げる事が、すなわち津田のために最も適当な細君を作り出す所以《ゆえん》だと誤解しているらしかった。それのみか、もう一歩夫人の胸中に立ち入って、その真底《しんそこ》を探《さぐ》ると、とんでもない結論になるかも知れなかった。彼女はただお延を好かないために、ある手段を拵《こしら》えて、相手を苛《いじ》めにかかるのかも分らなかった。気に喰わないだけの根拠で、敵を打ち懲《こ》らす方法を講じているのかも分らなかった。幸《さいわい》に自分でそこを認めなければならないほどに、世間からも己《おの》れからも反省を強《し》いられていない境遇にある彼女は、気楽であった。お延の教育。――こういう言葉が臆面《おくめん》なく彼女の口を洩れた。夫人とお延の間柄を、
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