きる事なんです。そうして結果はあなたの得になるだけなんです」
「そんなに雑作《ぞうさ》なくできるんですか」
「ええまあ笑談《じょうだん》みたいなものです。ごくごく大袈裟《おおげさ》に云ったところで、面白半分の悪戯《いたずら》よ。だから思い切ってやるとおっしゃい」
津田にはすべてが謎《なぞ》であった。けれどもたかが悪戯ならという気がようやく彼の腹に起った。彼はついに決心した。
「何だか知らないがまあやってみましょう。話してみて下さい」
しかし夫人はすぐその悪戯の性質を説明しなかった。津田の保証を掴《つか》んだ後《あと》で、また話題を変えた。ところがそれは、あらゆる意味で悪戯とは全くかけ離れたものであった。少くとも津田には重大な関係をもっていた。
夫人は下《しも》のような言葉で、まずそれを二人の間に紹介した。
「あなたはその後|清子《きよこ》さんにお会いになって」
「いいえ」
津田の少し吃驚《びっくり》したのは、ただ問題の唐突《とうとつ》なばかりではなかった。不意に自分をふり棄《す》てた女の名が、逃がした責任を半分|背負《しょ》っている夫人の口から急に洩《も》れたからである。夫人は語を継《つ》いだ。
「じゃ今どうしていらっしゃるか、御存知ないでしょう」
「まるで知りません」
「まるで知らなくっていいの」
「よくないったって仕方がないじゃありませんか。もうよそへ嫁に行ってしまったんだから」
「清子さんの結婚の御披露《ごひろう》の時にあなたはおいでになったんでしたかね」
「行きません。行こうたってちょっと行き悪《にく》いですからね」
「招待状は来たの」
「招待状は来ました」
「あなたの結婚の御披露の時に、清子さんはいらっしゃらなかったようね」
「ええ来やしません」
「招待状は出したの」
「招待状だけは出しました」
「じゃそれっきりなのね、両方共」
「無論それっきりです。もしそれっきりでなかったら問題ですもの」
「そうね。しかし問題にも寄《よ》り切りでしょう」
津田には夫人の云う意味がよく解らなかった。夫人はそれを説明する前にまたほかの道へ移った。
「いったい延子さんは清子さんの事を知ってるの」
津田は塞《つか》えた。小林を研究し尽した上でなければ確《しか》とした返事は与えられなかった。夫人は再び訊《き》き直した。
「あなたが自分で話した事はなくって」
「ありゃしません」
「じゃ延子さんはまるで知らずにいるのね、あの事を」
「ええ、少くとも私からは何にも聴《き》かされちゃいません」
「そう。じゃ全く無邪気なのね。それとも少しは癇《かん》づいているところがあるの」
「そうですね」
津田は考えざるを得なかった。考えても断案は控えざるを得なかった。
百三十八
話しているうちに、津田はまた思いがけない相手の心理に突き当った。今まで清子の事をお延に知らせないでおく方が、自分の都合でもあり、また夫人の意志でもあるとばかり解釈して疑わなかった彼は、この時始めて気がついた。夫人はどう考えてもお延にそれを気《け》どっていて貰《もら》いたいらしかったからである。
「たいていの見当はつきそうなものですがね」と夫人は云った。津田はお延の性質を知っているだけになお答え悪《にく》くなった。
「そこが分らないといけないんですか」
「ええ」
津田はなぜだか知らなかった。けれども答えた。
「もし必要なら話しても好ござんすが……」
夫人は笑い出した。
「今さらあなたがそんな事をしちゃぶち壊《こわ》しよ。あなたはしまいまで知らん顔をしていなくっちゃ」
夫人はこれだけ云って、言葉に区切《くぎり》を付けた後で、新たに出直した。
「私《わたし》の判断を云いましょうか。延子さんはああいう怜俐《りこう》な方《かた》だから、もうきっと感づいているに違《ちがい》ないと思うのよ。何、みんな判るはずもないし、またみんな判っちゃこっちが困るんです。判ったようでまた判らないようなのが、ちょうど持って来いという一番結構な頃合《ころあい》なんですからね。そこで私の鑑定から云うと、今の延子さんは、都合《つごう》よく私のお誂《あつら》え通《どお》りのところにいらっしゃるに違ないのよ」
津田は「そうですか」というよりほかに仕方がなかった。しかしそういう結論を夫人に与える材料はほとんどなかろうにと、腹の中では思った。しかるに夫人はあると云い出した。
「でなければ、ああ虚勢を張る訳がありませんもの」
お延の態度を虚勢と評したのは、夫人が始めてであった。この二字の前に怪訝《けげん》な思いをしなければならなかった津田は、一方から見て、またその皮肉を第一に首肯《うけが》わなければならない人であった。それにもかかわらず彼は躊躇《ちゅうちょ》なしに応諾を与える事ができなかった。夫人はまた事もなげに笑った。
「なに構わないのよ。万一全く気がつかずにいるようなら、その時はまたその時でこっちにいくらでも手があるんだから」
津田は黙ってその後《あと》を待った。すると後は出ずに、急に清子の方へ話が逆転して来た。
「あなたは清子さんにまだ未練がおありでしょう」
「ありません」
「ちっとも?」
「ちっともありません」
「それが男の嘘《うそ》というものです」
嘘を云うつもりでもなかった津田は、全然本当を云っているのでもないという事に気がついた。
「これでも未練があるように見えますか」
「そりゃ見えないわ、あなた」
「じゃどうしてそう鑑定なさるんです」
「だからよ。見えないからそう鑑定するのよ」
夫人の論議《ロジック》は普通のそれとまるで反対であった。と云って、支離滅裂はどこにも含まれていなかった。彼女は得意にそれを引き延ばした。
「ほかの人には外側も内側も同《おん》なじとしか見えないでしょう。しかし私《わたし》には外側へ出られないから、仕方なしに未練が内へ引込《ひっこ》んでいるとしか考えられませんもの」
「奥さんは初手《しょて》から私に未練があるものとして、きめてかかっていらっしゃるから、そうおっしゃるんでしょう」
「きめてかかるのにどこに無理がありますか」
「そう勝手に認定されてしまっちゃたまりません」
「私がいつ勝手に認定しました。私のは認定じゃありませんよ。事実ですよ。あなたと私だけに知れている事実を云うのですよ。事実ですもの、それをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんか、いくらほかの人を騙《だま》す事ができたって。それもあなただけの事実ならまだしも、二人に共通な事実なんだから、両方で相談の上、どこかへ埋《う》めちまわないうちは、記憶のある限り、消えっこないでしょう」
「じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです」
「なぜ埋めるんです。埋める必要がどこかにあるんですか。それよりなぜそれを活《い》かして使わないんです」
「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」
「罪悪とは何です。そんな手荒《てあら》な事をしろと私がいつ云いました」
「しかし……」
「あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか」
津田の眼は好奇心をもって輝やいた。
百三十九
夫人はもう未練のある証拠を眼の前に突きつけて津田を抑《おさ》えたと同じ事であった。自白後に等しい彼の態度は二人の仕合《しあい》に一段落をつけたように夫人を強くした。けれども彼女は津田が最初に考えたほどこの点において独断的な暴君ではなかった。彼女は思ったより細緻《さいち》な注意を払って、津田の心理状態を観察しているらしかった。彼女はその実券《じっけん》を、いったん勝った後《あと》で彼に示した。
「ただ未練未練って、雲を掴《つか》むような騒ぎをやるんじゃありませんよ。私《わたし》には私でまたちゃんと握ってるところがあるんですからね。これでもあなたの未練をこんなものだといって他《ひと》に説明する事ができるつもりでいるんですよ」
津田には何が何だかさっぱり訳が解らなかった。
「ちょっと説明して見て下さいませんか」
「お望みなら説明してもよござんす。けれどもそうするとつまりあなたを説明する事になるんですよ」
「ええ構いません」
夫人は笑い出した。
「そう他の云う事が通じなくっちゃ困るのね。現在自分がちゃんとそこに控えていながら、その自分が解らないで、他に説明して貰《もら》うなんてえのは馬鹿気《ばかげ》ているじゃありませんか」
はたして夫人の云う通りなら馬鹿気ているに違なかった。津田は首を傾けた。
「しかし解りませんよ」
「いいえ解ってるのよ」
「じゃ気がつかないんでしょう」
「いいえ気もついているのよ」
「じゃどうしたんでしょう。――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか」
「まあそうよ」
津田は投げ出した。ここまで追いつめられながら、まだ隠し立《だて》をしようとはさすがの自分にも道理と思えなかった。
「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、どうぞ説明して下さい」
夫人は微《かす》かに溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「ああああ張合《はりあい》がないのね、それじゃ。せっかく私が丹精《たんせい》して拵《こしら》えて来て上げたのに、肝心《かんじん》のあなたがそれじゃ、まるで無駄骨《むだぼね》を折ったと同然ね。いっそ何にも話さずに帰ろうか知ら」
津田は迷宮《メーズ》に引き込まれるだけであった。引き込まれると知りながら、彼は夫人の後を追《おっ》かけなければならなかった。そこには自分の好奇心が強く働いた。夫人に対する義理と気兼《きがね》も、けっして軽い因子ではなかった。彼は何度も同じ言葉を繰り返して夫人の説明を促《うな》がした。
「じゃ云いましょう」と最後に応じた時の夫人の様子はむしろ得意であった。「その代り訊《き》きますよ」と断った彼女は、はたして劈頭《へきとう》に津田の毒気《どっき》を抜いた。
「あなたはなぜ清子さんと結婚なさらなかったんです」
問は不意に来た。津田はにわかに息塞《いきづま》った。黙っている彼を見た上で夫人は言葉を改めた。
「じゃ質問を易《か》えましょう。――清子さんはなぜあなたと結婚なさらなかったんです」
今度は津田が響の声に応ずるごとくに答えた。
「なぜだかちっとも解らないんです。ただ不思議なんです。いくら考えても何にも出て来ないんです」
「突然|関《せき》さんへ行っちまったのね」
「ええ、突然。本当を云うと、突然なんてものは疾《とっく》の昔《むかし》に通り越していましたね。あっと云って後《うしろ》を向いたら、もう結婚していたんです」
「誰があっと云ったの」
この質問ほど津田にとって無意味なものはなかった。誰があっと云おうと余計なお世話としか彼には見えなかった。然《しか》るに夫人はそこへとまって動かなかった。
「あなたがあっと云ったんですか。清子さんがあっと云ったんですか。あるいは両方であっと云ったんですか」
「さあ」
津田はやむなく考えさせられた。夫人は彼より先へ出た。
「清子さんの方は平気だったんじゃありませんか」
「さあ」
「さあじゃ仕方がないわ、あなた。あなたにはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかったの」
「どうも平気のようでした」
夫人は軽蔑《けいべつ》の眼を彼の上に向けた。
「ずいぶん気楽ね、あなたも。清子さんの方が平気だったから、あなたがあっと云わせられたんじゃありませんか」
「あるいはそうかも知れません」
「そんならその時のあっ[#「あっ」に傍点]の始末はどうつける気なの」
「別につけようがないんです」
「つけようがないけれども、実はつけたいんでしょう」
「ええ。だからいろいろ考えたんです」
「考えて解ったの」
「解らないんです。考えれば考えるほど解らなくなるだけなんです」
「それだから考えるのはもうやめちまったの」
「いいえやっぱりやめられないんです」
「じゃ今でもまだ考えてるのね」
「そうです」
「それ御覧なさい。それがあなたの未練じゃありませんか」
夫人はとうとう
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