すけれども、そのたんびにお秀さんがやって来るようだと、私も口を利《き》くのに骨が折れるだけですからね」
 夫人のいう禍《わざわい》の根というのはたしかにお延の事に違なかった。ではその根をどうして療治しようというのか。肉体上の病気でもない以上、離別か別居を除いて療治という言葉はたやすく使えるものでもないのにと津田は考えた。

        百三十五

 津田はやむをえず訊《き》いた。
「要するにどうしたらいいんです」
 夫人はこの子供らしい質問の前に母らしい得意の色を見せた。けれどもすぐ要点へは来なかった。彼女はそこだと云わぬばかりにただ微笑した。
「いったいあなたは延子さんをどう思っていらっしゃるの」
 同じ問が同じ言葉で昨日《きのう》かけられた時、お秀に何と答えたかを津田は思い出した。彼は夫人に対する特別な返事を用意しておかなかった。その代り何とでも答えられる自由な地位にあった。腹蔵《ふくぞう》のないところをいうと、どうなりとあなたの好きなお返事を致しますというのが彼の胸中であった。けれども夫人の頭にあるその好きな返事は、全く彼の想像のほかにあった。彼はへどもどするうちににやにやした。勢い夫人は一歩前へ進んで来る事になった。
「あなたは延子さんを可愛がっていらっしゃるでしょう」
 ここでも津田の備えは手薄であった。彼は冗談半分《じょうだんはんぶん》に夫人をあしらう事なら幾通《いくとおり》でもできた。しかし真面目《まじめ》に改まった、責任のある答を、夫人の気に入るような形で与えようとすると、その答はけっしてそうすらすら出て来なかった。彼にとって最も都合の好い事で、また最も都合の悪い事は、どっちにでも自由に答えられる彼の心の状態であった。というのは、事実彼はお延を愛してもいたし、またそんなに愛してもいなかったからである。
 夫人はいよいよ真剣らしく構えた。そうして三度目の質問をのっぴきさせぬ調子で掛けた。
「私《あたし》とあなただけの間の秘密にしておくから正直に云っとしまいなさい。私の聴《き》きたいのは何でもないんです。ただあなたの思った通りのところを一口伺えばそれでいいんです」
 見当《けんとう》の立たない津田はいよいよ迷《まご》ついた。夫人は云った。
「あなたもずいぶんじれったい方《かた》ね。云える事は男らしく、さっさと云っちまったらいいでしょう。そんなむずかしい事を誰も訊《き》いていやしないんだから」
 津田はとうとう口を開くべく余儀なくされた。
「お返事ができない訳でもありませんけれども、あんまり問題が漠然《ばくぜん》としているものですから……」
「じゃ仕方がないから私の方で云いましょうか。よござんすか」
「どうぞそう願います」
「あなたは」と云いかけた夫人はこの時ちょっと言葉を切ってまた継《つ》いだ。
「本当によござんすか。――あたしはこういう無遠慮な性分《しょうぶん》だから、よく自分の思ったままをずばずば云っちまった後《あと》で、取り返しのつかない事をしたと後悔する場合がよくあるんですが」
「なに構いません」
「でももしか、あなたに怒られるとそれっきりですからね。後でいくら詫《あや》まっても追《おっ》つかないなんて馬鹿はしたくありませんもの」
「しかし私の方で何とも思わなければそれでいいでしょう」
「そこさえ確かなら無論いいのよ」
「大丈夫です。偽《うそ》だろうが本当だろうが、奥さんのおっしゃる事ならけっして腹は立てませんから、遠慮なさらずに云って下さい」
 すべての責任を向うに背負《しょ》わせてしまう方が遥《はる》かに楽だと考えた津田は、こう受け合った後で、催促するように夫人を見た。何度となく駄目《だめ》を押して保険をつけた夫人はその時ようやく口を開いた。
「もし間違ったら御免遊ばせよ。あなたはみんなが考えている通り、腹の中ではそれほど延子さんを大事にしていらっしゃらないでしょう。秀子さんと違って、あたしは疾《と》うからそう睨《にら》んでいるんですが、どうです、あたしの観測はあたりませんかね」
 津田は何ともなかった。
「無論です。だから先刻《さっき》申し上げたじゃありませんか。そんなにお延を大事にしちゃいませんて」
「しかしそれは御挨拶《ごあいさつ》におっしゃっただけね」
「いいえ私は本当のところを云ったつもりです」
 夫人は断々乎《だんだんこ》として首肯《うけが》わなかった。
「ごまかしっこなしよ。じゃ後《あと》を云ってもよござんすか」
「ええどうぞ」
「あなたは延子さんをそれほど大事にしていらっしゃらないくせに、表ではいかにも大事にしているように、他《ひと》から思われよう思われようとかかっているじゃありませんか」
「お延がそんな事でも云ったんですか」
「いいえ」と夫人はきっぱり否定した。「あなたが云ってるだけよ。あなたの様子なり態度なりがそれだけの事をちゃんとあたしに解るようにして下さるだけよ」
 夫人はそこでちょっと休んだ。それから後を付けた。
「どうですあたったでしょう。あたしはあなたがなぜそんな体裁《ていさい》を作っているんだか、その原因までちゃんと知ってるんですよ」

        百三十六

 津田は今日までこういう種類の言葉をまだ夫人の口から聴《き》いた事がなかった。自分達夫婦の仲を、夫人が裏側からどんな眼で観察しているだろうという問題について、さほど神経を遣《つか》っていなかった彼は、ようやくそこに気がついた。そんならそうと早く注意してくれればいいのにと思いながら、彼はとにかく夫人の鑑定なり料簡《りょうけん》なりをおとなしく結末まで聴くのが上分別《じょうふんべつ》だと考えた。
「どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。私の向後《こうご》の心得にもなる事ですから」
 途中まで来た夫人は、たとい津田から誘われないでも、もうそこで止《と》まる訳に行かないので、すぐ残りのものを津田の前に投げ出した。
「あなたは良人《うち》や岡本の手前があるので、それであんなに延子さんを大事になさるんでしょう。もっと露骨なのがお望みなら、まだ露骨にだって云えますよ。あなたは表向《おもてむき》延子さんを大事にするような風をなさるのね、内側はそれほどでなくっても。そうでしょう」
 津田は相手の観察が真逆《まさか》これほど皮肉な点まで切り込んで来ていようとは思わなかった
「私の性質なり態度なりが奥さんにそう見えますか」
「見えますよ」
 津田は一刀《ひとかたな》で斬られたと同じ事であった。彼は斬られた後《あと》でその理由を訊《き》いた。
「どうして? どうしてそう見えるんですか」
「隠さないでもいいじゃありませんか」
「別に隠すつもりでもないんですが……」
 夫人は自分の推定が十の十まであたったと信じてかかった。心の中《うち》でその六だけを首肯《うけが》った津田の挨拶《あいさつ》は、自然どこかに曖昧《あいまい》な節《ふし》を残さなければならなかった。それがこの場合誤解の種になるのは見やすい道理であった。夫人はどこまでも同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追い込んだ。
「隠しちゃ駄目よ。あなたが隠すと後が云えなくなるだけだから」
 津田は是非その後を聴きたかった。その後を聴こうとすれば、夫人の認定を一から十まで承知するよりほかに仕方がなかった。夫人は「それ御覧なさい」と津田をやりこめた後で歩を進めた。
「あなたにはてんから誤解があるのよ。あなたは私《わたし》を良人《うち》といっしょに見ているんでしょう。それから良人と岡本をまたいっしょに見ているんでしょう。それが大間違よ。岡本と良人をいっしょに見るのはまだしも、私を良人や岡本といっしょにするのはおかしいじゃありませんか、この事件について。学問をした方にも似合わないのねあなたも、そんなところへ行くと」
 津田はようやく夫人の立場を知る事ができた。しかしその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。夫人は云った。
「解り切ってるじゃありませんか。私だけはあなたと特別の関係があるんですもの」
 特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田にはよく解った。しかしそれは目下の問題ではなかった。なぜと云えば、その特別な関係をよく呑《の》み込んでいればこそ、今日《こんにち》までの自分の行動にも、それ相当な一種の色と調子を与えて来たつもりだと彼は信じていたのだから。この特別な関係が夫人をどう支配しているか、そこをもっと明らかに突きとめたところに、新らしい問題は始めて起るのだと気がついた彼は、ただ自分の誤解を認めるだけではすまされなかった。
 夫人は一口に云い払った。
「私はあなたの同情者よ」
 津田は答えた。
「それは今までついぞ疑《うたぐ》って見た例《ためし》もありません。私《わたくし》は信じ切っています。そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです。しかしどういう意味で? どういう意味で同情者になって下さるつもりなんですか、この場合。私は迂濶《うかつ》ものだから奥さんの意味がよく呑《の》み込めません。だからもっと判然《はっき》り話して下さい」
「この場合に同情者として私《わたし》があなたにして上げる事がただ一つあると思うんです。しかしあなたは多分――」
 夫人はこれだけ云って津田の顔を見た。津田はまた焦《じ》らされるのかと思った。しかしそうでないと断言した夫人の問は急に変った。
「私の云う事を聴《き》きますか、聴きませんか」
 津田にはまだ常識が残っていた。彼はここへ押しつめられた何人《なんびと》も考えなければならない事を考えた。しかし考えた通りを夫人の前で公然明言する勇気はなかった。勢い彼の態度は煮え切らないものであった。聴くとも聴かないとも云いかねた彼は躊躇《ちゅうちょ》した。
「まあ云って見て下さい」
「まあじゃいけません。あなたがもっと判切《はっきり》しなくっちゃ、私だって云う気にはなれません」
「だけれども――」
「だけれどもでも駄目《だめ》よ。聴きますと男らしく云わなくっちゃ」

        百三十七

 どんな注文が夫人の口から出るか見当《けんとう》のつかない津田は、ひそかに恐れた。受け合った後で撤回しなければならないような窮地に陥《おち》いればそれぎりであった。彼はその場合の夫人を想像してみた。地位から云っても、性質から見ても、また彼に対する特別な関係から判断しても、夫人はけっして彼を赦《ゆる》す人ではなかった。永久夫人の前に赦《ゆる》されない彼は、あたかも蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸《けいがい》と一般であった。用心深い彼は生還の望《のぞみ》の確《しか》としない危地に入り込む勇気をもたなかった。
 その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住み馴《な》れた彼女の眼には、ほとんど自分の無理というものが映らなかった。云えばたいていの事は通った。たまに通らなければ、意地で通すだけであった。ことに困るのは、自分の動機を明暸《めいりょう》に解剖して見る必要に逼《せま》られない彼女の余裕であった。余裕というよりもむしろ放慢な心の持方であった。他《ひと》の世話を焼く時にする自分の行動は、すべて親切と好意の発現で、そのほかに何の私《わたくし》もないものと、てんからきめてかかる彼女に、不安の来《く》るはずはなかった。自分の批判はほとんど当初から働らかないし、他《ひと》の批判は耳へ入らず、また耳へ入れようとするものもないとなると、ここへ落ちて来るのは自然の結果でもあった。
 夫人の前に押しつめられた時、津田の胸に、これだけの考えが蜿蜒《うねく》り廻ったので、埒《らち》はますます開《あ》かなかった。彼の様子を見た夫人は、ついに笑い出した。
「何をそんなにむずかしく考えてるんです。おおかた私《わたし》がまた無理でも云い出すんだと思ってるんでしょう。なんぼ私だってあなたにできっこないような不法は考えやしませんよ。あなたがやろうとさえ思えば、訳なくで
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