私がですか」
「いいえ、両方がよ」
苦笑した津田が口を閉じるのを待って、夫人の方で口を開いた。
「延子さんと秀子さんは昨日《きのう》ここで落ち合ったでしょう」
「ええ」
「それから何かあったのね、変な事が」
「別に……」
「空《そら》ッ惚《とぼ》けちゃいけません。あったらあったと、判然《はっきり》おっしゃいな、男らしく」
夫人はようやく持前の言葉|遣《づか》いと特色とを、発揮し出した。津田は挨拶《あいさつ》に困った。黙って少し様子を見るよりほかに仕方がないと思った。
「秀子さんをさんざん苛《いじ》めたって云うじゃありませんか。二人して」
「そんな事があるものですか。お秀の方が怒ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです」
「そう。しかし喧嘩《けんか》はしたでしょう。喧嘩といったって殴《なぐ》り合《あい》じゃないけれども」
「それだってお秀のいうような大袈裟《おおげさ》なものじゃないんです」
「かも知れないけれども、多少にしろ有ったには有ったんですね」
「そりゃちょっとした行違《いきちがい》ならございました」
「その時あなた方は二人がかりで秀子さんを苛《いじ》めたでしょう」
「苛めやしません。あいつが耶蘇教《ヤソきょう》のような気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》を吐《は》いただけです」
「とにかくあなたがたは二人、向うは一人だったに違《ちがい》ないでしょう」
「そりゃそうかも知れません」
「それ御覧なさい。それが悪いじゃありませんか」
夫人の断定には意味も理窟《りくつ》もなかった。したがってどこが悪いんだか津田にはいっこう通じなかった。けれどもこういう場合にこんな風になって出て来る夫人の特色は、けっして逆《さか》らえないものとして、もう津田の頭に叩《たた》き込まれていた。素直《すなお》に叱られているよりほかに彼の途《みち》はなかった。
「そういうつもりでもなかったんですけれども、自然の勢《いきおい》で、いつかそうなってしまったんでしょう」
「でしょうじゃいけません。ですと判然《はっきり》おっしゃい。いったいこういうと失礼なようですが、あなたがあんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ」
津田は首を傾けた。
百三十三
怜俐《れいり》な性分に似合わず夫人対お延の関係は津田によく呑《の》み込めていなかった。夫人に津田の手前があるように、お延にも津田におく気兼《きがね》があったので、それが真向《まとも》に双方を了解できる聡明《そうめい》な彼の頭を曇らせる原因になった。女の挨拶《あいさつ》に相当の割引をして見る彼も、そこにはつい気がつかなかったため、彼は自分の前でする夫人のお延評を真《ま》に受けると同時に、自分の耳に聴《き》こえるお延の夫人評もまた疑がわなかった。そうしてその評は双方共に美くしいものであった。
二人の女性が二人だけで心の内に感じ合いながら、今までそれを外に現わすまいとのみ力《つと》めて来た微妙な軋轢《あつれき》が、必然の要求に逼《せま》られて、しだいしだいに晴れ渡る靄《もや》のように、津田の前に展開されなければならなくなったのはこの時であった。
津田は夫人に向って云った。
「別段大事にするほどの女房でもありませんから、その辺の御心配は御無用です」
「いいえそうでないようですよ。世間じゃみんなそう思ってますよ」
世間という仰山《ぎょうさん》な言葉が津田を驚ろかせた。夫人は仕方なしに説明した。
「世間って、みんなの事よ」
津田にはそのみんなさえ明暸《めいりょう》に意識する事ができなかった。しかし世間だのみんなだのという誇張した言葉を強める夫人の意味は、けっして推察に困難なものではなかった。彼女はどうしてもその点を津田の頭に叩《たた》き込もうとするつもりらしかった。津田はわざと笑って見せた。
「みんなって、お秀の事なんでしょう」
「秀子さんは無論そのうちの一人よ」
「そのうちの一人でそうしてまた代表者なんでしょう」
「かも知れないわ」
津田は再び大きな声を出して笑った。しかし笑った後ですぐ気がついた。悪い結果になって夫人の上に反響して来たその笑いはもう取り返せなかった。文句を云わずに伏罪《ふくざい》する事の便宜《べんぎ》を悟った彼は、たちまち容《かた》ちを改ためた。
「とにかくこれからよく気をつけます」
しかし夫人はそれでもまだ満足しなかった。
「秀子さんばかりだと思うと間違いですよ。あなたの叔父さんや叔母さんも、同《おん》なじ考えなんだからそのつもりでいらっしゃい」
「はあそうですか」
藤井夫婦の消息が、お秀の口から夫人に伝えられたのも明らかであった。
「ほかにもまだあるんです」と夫人がまた付け加えた。津田はただ「はあ」と云って相手の顔を見た拍子《ひょうし》に、彼の予期した通りの言葉がすぐ彼女の口から洩《も》れた。
「実を云うと、私も皆さんと同なじ意見ですよ」
権威ででもあるような調子で、最後にこう云った夫人の前に、彼はもちろん反抗の声を揚げる勇気を出す必要を認めなかった。しかし腹の中では同時に妙な思《おも》わく違《ちがい》に想《おも》いいたった。彼は疑った。
「何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。自分のお延を鄭重《ていちょう》に取扱い過ぎるのが悪いといって非難する上に、お延自身をもその非難のうちに含めているのではなかろうか」
この疑いは津田にとって全く新らしいものであった。夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さえ彼には困難なくらい新らしいものであった。彼はこの疑問に立ち向う前に、まだ自分の頭の中に残っている一つの質問を掛けた。
「岡本さんでも、そんな評判があるんでしょうか」
「岡本は別よ。岡本の事なんか私の関係するところじゃありません」
夫人がすましてこう云い切った時、津田は思わずおやと思った。「じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか」という次の問が、自然の順序として、彼の咽喉《のど》まで出かかった。
実を云うと、彼は「世間」の取沙汰通《とりざたどお》り、お延を大事にするのではなかった。誤解交《ごかいまじ》りのこの評判が、どこからどうして起ったかを、他《ひと》に説明しようとすれば、ずいぶん複雑な手数《てすう》がかかるにしても、彼の頭の中にはちゃんとした明晰《めいせき》な観念があって、それを一々|掌《たなごころ》に指《さ》す事のできるほどに、事実の縞柄《しまがら》は解っていた。
第一の責任者はお延その人であった。自分がどのくらい津田から可愛がられ、また津田をどのくらい自由にしているかを、最も曲折の多い角度で、あらゆる方面に反射させる手際をいたるところに発揮して憚《はば》からないものは彼女に違《ちがい》なかった。第二の責任者はお秀であった。すでに一種の誇張がある彼女の眼を、一種の嫉妬《しっと》が手伝って染めた。その嫉妬がどこから出て来るのか津田は知らなかった。結婚後始めて小姑《こじゅうと》という意味を悟った彼は、せっかく悟った意味を、解釈のできないために持て余した。第三の責任者は藤井の叔父夫婦であった。ここには誇張も嫉妬《しっと》もない代りに、浮華《ふか》に対する嫌悪《けんお》があまり強く働らき過ぎた。だから結果はやはり誤解と同じ事に帰着した。
百三十四
津田にはこの誤解を誤解として通しておく特別な理由があった。そうしてその理由はすでに小林の看破《かんぱ》した通りであった。だから彼はこの誤解から生じやすい岡本の好意を、できるだけ自分の便宜《べんぎ》になるように保留しようと試みた。お延を鄭寧《ていねい》に取扱うのは、つまり岡本家の機嫌《きげん》を取るのと同じ事で、その岡本と吉川とは、兄弟同様に親しい間柄である以上、彼の未来は、お延を大事にすればするほど確かになって来る道理であった。利害の論理《ロジック》に抜目のない機敏さを誇りとする彼は、吉川夫妻が表向《おもてむき》の媒妁人《ばいしゃくにん》として、自分達二人の結婚に関係してくれた事実を、単なる名誉として喜こぶほどの馬鹿ではなかった。彼はそこに名誉以外の重大な意味を認めたのである。
しかしこれはむしろ一般的の内情に過ぎなかった。もう一皮|剥《む》いて奥へ入ると、底にはまだ底があった。津田と吉川夫人とは、事件がここへ来るまでに、他人の関知しない因果《いんが》でもう結びつけられていた。彼らにだけ特有な内外の曲折を経過して来た彼らは、他人より少し複雑な眼をもって、半年前に成立したこの新らしい関係を眺めなければならなかった。
有体《ありてい》にいうと、お延と結婚する前の津田は一人の女を愛していた。そうしてその女を愛させるように仕向けたものは吉川夫人であった。世話好な夫人は、この若い二人を喰っつけるような、また引き離すような閑手段《かんしゅだん》を縦《ほしい》ままに弄《ろう》して、そのたびにまごまごしたり、または逆《のぼ》せ上《あが》ったりする二人を眼の前に見て楽しんだ。けれども津田は固く夫人の親切を信じて疑がわなかった。夫人も最後に来《きた》るべき二人の運命を断言して憚《はば》からなかった。のみならず時機の熟したところを見計って、二人を永久に握手させようと企てた。ところがいざという間際になって、夫人の自信はみごとに鼻柱を挫《くじ》かれた。津田の高慢も助かるはずはなかった。夫人の自信と共に一棒に撲殺《ぼくさつ》された。肝心《かんじん》の鳥はふいと逃げたぎり、ついに夫人の手に戻って来なかった。
夫人は津田を責めた。津田は夫人を責めた。夫人は責任を感じた。しかし津田は感じなかった。彼は今日《きょう》までその意味が解らずに、まだ五里霧中に彷徨《ほうこう》していた。そこへお延の結婚問題が起った。夫人は再び第二の恋愛事件に関係すべく立ち上った。そうして夫と共に、表向《おもてむき》の媒妁人として、綺麗《きれい》な段落をそこへつけた。
その時の夫人の様子を細《こま》かに観察した津田はなるほどと思った。
「おれに対する賠償《ばいしょう》の心持だな」
彼はこう考えた。彼は未来の方針を大体の上においてこの心持から割り出そうとした。お延と仲善《なかよ》く暮す事は、夫人に対する義務の一端だと思い込んだ。喧嘩《けんか》さえしなければ、自分の未来に間違はあるまいという鑑定さえ下した。
こういう心得に万《ばん》遺※[#「竹かんむり/弄」、第3水準1−89−64]《いさん》のあるはずはないと初手《しょて》からきめてかかって吉川夫人に対している津田が、たとい遠廻しにでもお延を非難する相手の匂《にお》いを嗅《か》ぎ出した以上、おやと思うのは当然であった。彼は夫人に気に入るように自分の立場を改める前に、まず確かめる必要があった。
「私がお延を大事にし過ぎるのが悪いとおっしゃるほかに、お延自身に何か欠点でもあるなら、御遠慮なく忠告していただきたいと思います」
「実はそれで上ったのよ、今日は」
この言葉を聴《き》いた時、津田の胸は夫人の口から何が出て来るかの好奇心に充《み》ちた。夫人は語を継《つ》いだ。
「これは私《あたし》でないと面《めん》と向って誰もあなたに云えない事だと思うから云いますがね。――お秀さんに智慧《ちえ》をつけられて来たと思っては困りますよ。また後でお秀さんに迷惑をかけるようだと、私がすまない事になるんだから、よござんすか。そりゃお秀さんもその事でわざわざ来たには違《ちがい》ないのよ。しかし主意は少し違うんです。お秀さんは重《おも》に京都の方を心配しているの。無論京都はあなたから云えばお父さんだから、けっして疎略にはできますまい。ことに良人《うち》でもああしてお父さんにあなたの世話を頼まれていて見ると、黙って放《ほう》ってもおく訳にも行かないでしょう。けれどもね、つまりそっちは枝で、根は別にあるんだから、私は根から先へ療治した方が遥《はる》かに有効だと思うんです。でないと今度《こんだ》のような行違《いきちがい》がまたきっと出て来ますよ。ただ出て来るだけならよござん
前へ
次へ
全75ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング