んどうぞ話してちょうだいよ」
 その時お秀の涼しい眼のうちに残酷《ざんこく》な光が射した。
「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分|独《ひと》り精一杯《せいいっぱい》愛されなくっちゃ気がすまないと見えるのね」
「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」
「良人《うち》を御覧なさい」
 お秀はすぐこう云って退《の》けた。お延は話頭《わとう》からわざと堀を追《お》い除《の》けた。
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直の云《い》いっ競《くら》よ。なんぼ秀子さんだって、気の多い人が好きな訳はないでしょう」
「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような素直《すなお》な夫が世の中にいるはずがないじゃありませんか」
 雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」
「そう、どこにそんな好い人がいるの」
 お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」
 お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。今までの二人の位地《いち》は顛倒《てんとう》した。そうして二人ともまるでそこに気がつかずに、勢の運ぶがままに前の方へ押し流された。あとの会話は理論とも実際とも片のつかない、出たとこ勝負になった。
「いくら理想だってそりゃ駄目《だめ》よ。その理想が実現される時は、細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの」
「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は生涯《しょうがい》経《た》ったって、感ずる訳に行かないじゃありませんか」
「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」
 お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延はいっこう構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」
「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ解《わか》るわ。けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら、肝心《かんじん》のあなただって、やッぱり女とは思わないでしょう。自分の宅《うち》の庭に咲いた花だけが本当の花で、世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」
「枯草でいいと思いますわ」
「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、嫂《ねえ》さんにとってもかえって満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌《きら》いなんだから」
 お秀の顔に軽蔑《けいべつ》の色が現われた。その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透《みす》かされた。お延はむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿だから理窟《りくつ》なんか解らないのよ」
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」
 お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で地団太《じだんだ》を踏んだ。せっかくの努力はこれ以上何物をも彼女に与える事ができなかった。留守《るす》に彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。

        百三十一

 お延とお秀が対坐《たいざ》して戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。
 津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延|宛《あて》で書いた手紙を持たせてやった車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、ちょうど小林の出て行った十分ほど後《あと》であった。
 彼は看護婦の口から夫人の名前を聴《き》いた時、この異人種《いじんしゅ》に近い二人が、狭い室《へや》で鉢合《はちあわ》せをしずにすんだ好都合《こうつごう》を、何より先にまず祝福した。その時の彼はこの都合をつけるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲をほとんど顧みる暇さえなかった。
 彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを止《と》めた。そうして彼女を案内した看護婦の両手に、抱えるようにして持たせた植木鉢《うえきばち》をちょっとふり返って見て、「どこへ置きましょう」と相談するように訊《き》いた。津田は看護婦の白い胸に映る紅葉《もみじ》の色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子を揃《そろ》えて並んでいる下に、恰好《かっこう》の好い手頃な石さえあしらったその盆栽《ぼんさい》が床《とこ》の間《ま》の上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
「どうです」
 先刻《さっき》から彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事ができた。もしやと思って、暗《あん》に心配していた彼の掛念《けねん》の半分は、この一語《いちご》で吹き晴らされたと同じ事であった。夫人はいつもほど陽気ではなかった。その代りいつもほど上《うわ》っ調子《ちょうし》でもなかった。要するに彼女は、津田がいまだかつて彼女において発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。それは一方で彼女の落ちつきを極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚《おうよう》さをやはり最高度に現わすものらしく見えた。津田は少し驚ろかされた。しかし好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、その奥には何があるか解らなかった。今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。津田は他《ひと》から機嫌《きげん》を取られつけている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、もしくは変って行っても差支《さしつか》えないと自分で許している、この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉《たてま》つらなければならない地位にあった。漢語でいうと彼女の一顰一笑《いっぴんいっしょう》が津田にはことごとく問題になった。この際の彼にはことにそうであった。
「今朝《けさ》秀子さんがいらしってね」
 お秀の訪問はまず第一の議事のごとくに彼女の口から投げ出された。津田は固《もと》より相手に応じなければならなかった。そうしてその応じ方は夫人の来ない前からもう考えていた。彼はお秀の夫人を尋ねた事を知って、知らない風をするつもりであった。誰から聴いたと問われた場合に、小林の名を出すのが厭《いや》だったからである。
「へえ、そうですか。平生あんまり御無沙汰《ごぶさた》をしているので、たまにはお詫《わび》に上らないと悪いとでも思ったのでしょう」
「いえそうじゃないの」
 津田は夫人の言葉を聴《き》いた後で、すぐ次の嘘《うそ》を出した。
「しかしあいつに用のある訳もないでしょう」
「ところがあったんです」
「へええ」
 津田はこう云ったなりその後《あと》を待った。
「何の用だかあてて御覧なさい」
 津田は空《そら》っ惚《とぼ》けて、考える真似《まね》をした。
「そうですね、お秀の用事というと、――さあ何でしょうかしら」
「分りませんか」
「ちょっとどうも。――元来私とお秀とは兄妹《きょうだい》でいながら、だいぶん質《たち》が違いますから」
 津田はここで余計な兄妹関係をわざと仄《ほの》めかした。それは事の来《く》る前に、自分を遠くから弁護しておくためであった。それから自分の言葉を、夫人がどう受けてくれるか、その反響をちょっと聴いてみるためであった。
「少し理窟《りくつ》ッぽいのね」
 この一語を聞くや否や、津田は得《え》たり賢《かし》こしと虚《きょ》につけ込んだ。
「あいつの理窟と来たら、兄の私でさえ悩まされるくらいですもの。誰だって、とてもおとなしく辛抱して聴《き》いていられたものじゃございません。だから私はあいつと喧嘩《けんか》をすると、いつでも好い加減にして投げてしまいます。するとあいつは好い気になって、勝ったつもりか何かで、自分の都合の好い事ばかりを方々へ行って触れ散らかすのです」
 夫人は微笑した。津田はそれを確かに自分の方に同情をもった微笑と解釈する事ができた。すると夫人の言葉が、かえって彼の思わくとは逆の見当《けんとう》を向いて出た。
「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――しかしなかなか筋の通った好い頭をもった方じゃありませんか。あたしあの方《かた》は好《すき》よ」
 津田は苦笑した。
「そりゃお宅なんぞへ上って、むやみに地金《じがね》を出すほどの馬鹿でもないでしょうがね」
「いえ正直よ、秀子さんの方が」
 誰よりお秀が正直なのか、夫人は説明しなかった。

        百三十二

 津田の好奇心は動いた。想像もほぼついた。けれどもそこへ折れ曲って行く事は彼の主意に背《そむ》いた。彼はただ夫人対お秀の関係を掘り返せばよかった。病気見舞を兼た夫人の用向《ようむき》も、無論それについての懇談にきまっていた。けれども彼女にはまた彼女に特有な趣《おもむき》があった。時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機会さえあれば、他《ひと》の内輪に首を突ッ込んで、なにかと眼下《めした》、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる代りに、到《いた》るところでまた道楽本位の本性を露《あら》わして平気であった。或時の彼女はむやみに急《せ》いて事を纏《まと》めようとあせった。そうかと思うと、ある時の彼女は、また正反対であった。わざわざべんべんと引ッ張るところに、さも興味でもあるらしい様子を見せてすましていた。鼠《ねずみ》を弄《もてあ》そぶ猫のようなこの時の彼女の態度が、たとい傍《はた》から見てどうあろうとも、自分では、閑散な時間に曲折した波瀾《はらん》を与えるために必要な優者の特権だと解釈しているらしかった。この手にかかった時の相手には、何よりも辛防《しんぼう》が大切であった。その代り辛防をし抜いた御礼はきっと来た。また来る事をもって彼女は相手を奨励した。のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。彼女と津田の間に取り換わされたこの黙契《もっけい》のために、津田の蒙《こうむ》った重大な損失が、今までにたった一つあった。その点で彼女が腹の中でいかに彼に対する責任を感じているかは、怜俐《れいり》な津田の見逃《みのが》すところでなかった。何事にも夫人の御意《ぎょい》を主眼に置いて行動する彼といえども、暗《あん》にこの強味だけは恃《たの》みにしていた。しかしそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。この際の夫人もなかなか要点へ来る前に時間を費やした。
「昨日《きのう》秀子さんが来たでしょう。ここへ」
「ええ。参りました」
「延子さんも来たでしょう」
「ええ」
「今日は?」
「今日はまだ参りません」
「今にいらっしゃるんでしょう」
 津田にはどうだか分らなかった。先刻《さっき》来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。返事を受け取らなかった勝手違も、実は気にかかっていた。
「どうですかしら」
「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」
「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」
「大変冷淡じゃありませんか」
 夫人は嘲《あざ》けるような笑い方をした。

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