って出れば、自分で自分の計画をぶち毀《こわ》すのと一般だと感づいた彼女は、「だって」と云いかけたまま、そこで逡巡《ためら》ったなり動けなくなった。
「まだ何か不足があるの」
 こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。そこには例の指環《ゆびわ》が遠慮なく輝やいていた。しかしお秀の鋭どい一瞥《いちべつ》は何の影響もお延に与える事ができなかった。指輪に対する彼女の無邪気さは昨日《きのう》と毫《ごう》も変るところがなかった。お秀は少しもどかしくなった。
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」
「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」
 他《ひと》に向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考えつけて来たお延は、平生から持ち合せの挨拶《あいさつ》をついこの場合にも使ってしまった。そうしてまた行きつまった。芝居に行った翌日《あくるひ》、岡本へ行って継子と話をした時用いた言葉を、そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気がついた。そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきをした。
 お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹《けいせき》をお秀に示したくなかった。そうかと云って、何事も知らない風を粧《よそお》って、見す見すお秀から馬鹿にされるのはなお厭《いや》だった。したがって応対に非常な呼吸が要《い》った。目的地へ漕《こ》ぎつけるまでにはなかなか骨が折れると思った。しかし彼女はとても見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気がつかなかった。彼女はまた態度を一変した。

        百二十八

 彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実に絡《から》まれた窮屈な云い廻し方を打ちやって、面《めん》と向き合ったままお秀に相見《しょうけん》しようとした。その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。それでも論戦の刺撃で、事実の面影《おもかげ》を突きとめる方が、まだましだと彼女は思った。
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」
 この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、毫《ごう》もこの特殊な場合に利用するに足らなかった。腹に何の貯《たくわ》えもない彼女は、考える風をした。そうして正直に答えた。
「そりゃちょっと解らないわ」
 お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、朝夕《あさゆう》傍《そば》にいて、見ているではないか」。お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
「解《わか》らないはずじゃありませんか。こっちが女なんですもの」
 お延はこれも愚答だと思った。もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が想《おも》いやられた。しかしお延はすぐこの愚答を活かしにかかった。
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延は直《ただ》ちに相手の言葉を繰り返した。
「大丈夫※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
 疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」
 お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の唇《くちびる》のあたりに認めた。しかし彼女はすぐそれを切って捨てた。
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」
「嘘《うそ》よ。そりゃあなたの事よ」
 お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労を省《はぶ》いた。
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」
 お延は叩きつけられた後《あと》で、自分もお秀と同じような愚問をかけた事に気がついた。
「だけど兄妹《きょうだい》としての津田は、あたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう」
「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだって疾《と》うから知ってるわ」
 お延の鎌《かま》は際《きわ》どいところで投げかけられた。お秀ははたしてかかった。
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども危険《あぶな》いのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しを聴《き》かしていただかないと」
「あら、あたし何にも知らないわ」
 こういったお秀は急に赧《あか》くなった。それが何の羞恥《しゅうち》のために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩《しま》できなかった。しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度《しょど》の記憶をまだ忘れずにいた。吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧《うすあか》い顔と、今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同を嗅《か》ぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当がつかなかった。彼女はこの場合無理にも二つのものを繋《つな》いでみたくってたまらなかった。けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、どこをどう探《さが》したって、金輪際《こんりんざい》出て来っこなかった。お延にとって最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、きっと或る聯絡《れんらく》が存在しているに相違ないという推測《すいそく》であった。そうしてその聯絡が、今の彼女にとって、すこぶる重大な意味をもっているに相違ないという一種の予覚であった。自然彼女はそこをもっと突ッついて見るよりほかに仕方がなかった。

        百二十九

 とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口を衝《つ》いて出る嘘《うそ》を抑《おさ》える事ができなかった。
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」
 こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊《き》き返した。
「あら何を」
「その事よ」
「その事って、どんな事なの」
 お延にはもう後《あと》がなかった。お秀には先があった。
「嘘でしょう」
「嘘じゃないのよ。津田の事よ」
 お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻《さっき》より著るしく目立って外へ現われた時、お延は路を誤まって一歩|深田《ふかだ》の中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救《すくい》を求めていたかも知れなかった。お秀は云った。
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」
「でも本当よ、秀子さん」
 お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」
「津田の事よ」
「だから兄の何よ」
「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」
「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、見当《けんとう》がつかないんですもの」
 お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。お延の腋《わき》の下から膏汗《あぶらあせ》が流れた。彼女は突然飛びかかった。
「秀子さん、あなたは基督教信者《キリストきょうしんじゃ》じゃありませんか」
 お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」
「でなければ、昨日《きのう》のような事をおっしゃる訳がないと思いますわ」
 昨日と今日の二人は、まるで地位を易《か》えたような形勢に陥《おちい》った。お秀はどこまでも優者の余裕を示した。
「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がお嫌《きら》いなんでしょう」
「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高《けだか》い心持になって、この小さいお延を憐《あわ》れんでいただきたいのよ。もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いて詫《あや》まるから」
 お延は光る宝石入の指輪を穿《は》めた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」
 持前の癖を見せて、眉《まゆ》を寄せた時、お延の細い眼から涙が膝《ひざ》の上へ落ちた。
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のために万《よろ》ずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしはいっこう恨《うら》みとは思いません。けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分もっていらっしゃるのは、あなたの顔つきでよく解《わか》ります。あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです」
 お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。お秀は赧《あか》くなる代りに少し蒼白《あおじろ》くなった。そうして度外《どはず》れに急《せ》き込《こ》んだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉|遣《づか》いをした。
「あたしはまだ何にも悪い事をした覚《おぼえ》はないんです。兄さんに対しても嫂《ねえ》さんに対しても、もっているのは好意だけです。悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」

        百三十

 お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその暗闇《くらやみ》を衝《つ》こうとした。三度目の嘘《うそ》が安々と彼女の口を滑《すべ》って出た。
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。お厭《いや》?」
 こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌《あいきょう》をその細い眼に湛《たた》えて、お秀を見た。しかし異性に対する場合の効果を予想したこの所作《しょさ》は全く外《はず》れた。お秀は驚ろかされた人のように、卒爾《そつじ》な質問をかけた。
「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」
「いいえ」
「じゃどこか外《ほか》から廻っていらしったの」
「いいえ。宅《うち》からすぐ上ったの」
 お秀はようやく安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだ縋《すが》りついた手を放さなかった。
「よう、秀子さ
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