に、お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。したがって彼女の言葉には滑《すべ》っこい皮膚があるだけで、肝心《かんじん》の中味に血も肉も盛られていなかった。それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞《せじ》の返礼をさも旨《うま》そうに鵜呑《うのみ》にしなければならなかった。
しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌《あいきょう》を手古盛《てこも》りに盛り返して、悪くお秀に強いるほど愚かな女ではなかった。時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人から煽《あお》って行こうとした。しかし前と同じ手段を用いて、ただ賞《ほ》めそやすだけでは、同じ不成蹟《ふせいせき》に陥《おち》いるかも知れないという恐れがあった。そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。そうしてその影響次第で後《あと》の段取をきめようと覚悟した。
彼女はお秀が自分の風呂の留守《るす》へ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。けれども藤井へ行く前に、彼女がもうすでに吉川夫人を訪問している事にはまるで想《おも》い到《いた》らなかった。しかも昨日《きのう》病院で起った波瀾《はらん》の結果として、彼女がわざわざそこまで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。この一点にかけると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、またお秀から驚ろかされなければならなかった。しかし驚ろかせられ方は二人共まるで違っていた。小林のは明らさまな事実の報告であった。お秀のは意味のありそうな無言であった。無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。
最初夫人の名前がお延の唇《くちびる》から洩《も》れた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。しかし不幸にしてそれは彼女にとって何の役にも立たない効果に過ぎなかった。少くともどう利用していいか解らない効果であった。その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。彼女は名前を口へ出すと共に、あるいはその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。
すると第二の予想外が継《つ》いで起った。お秀がちょっと顔を背《そむ》けた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。血色の変化はけっして怒りのためでないという事がその時始めて解《わか》った。年来|陳腐《ちんぷ》なくらい見飽《みあ》きている単純なきまりの悪さだと評するよりほかに仕方のないこの表情は、お延をさらに驚ろかさざるを得なかった。彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。しかしその意味の因《よ》って来《きた》るところは、お秀の説明を待たなければまた確かめられるはずがなかった。
お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接《つ》いだように、突然話題を変化した。行《ゆき》がかり上《じょう》全然今までと関係のないその話題は、三度目にまたお延を驚ろかせるに充分なくらい突飛《とっぴ》であった。けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。
百二十六
お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。この陳腐《ちんぷ》なありきたりの一語が、いかにお延の前に伏兵のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのが重《おも》な原因に相違なかったが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである。
お延に比べるとお秀は理窟《りくつ》っぽい女であった。けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。お延は自分で自分の理窟を行為の上に運んで行く女であった。だから平生彼女の議論をしないのは、できないからではなくって、する必要がないからであった。その代り他《ひと》から注《つ》ぎ込《こ》まれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかった。女学生時代に読み馴《な》れた雑誌さえ近頃は滅多《めった》に手にしないくらいであった。それでいて彼女はいまだかつて自分を貧弱と認めた事がなかった。虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟《しげき》されずにすんでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであった。
ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きをおくようになった。しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々|柄《がら》にもない議論を主張するような弊に陥《おちい》った。しかし自分が議論のために議論をしているのだからつまらないと気がつくまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分《だいぶん》の道程《みちのり》があった。意地の方から行くと、あまりに我《が》が強過ぎた。平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体に副《そ》ぐわないような理窟《りくつ》を、わざわざ自分の尊敬する書物の中《うち》から引張り出して来て、そこに書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。自然|弾丸《たま》を込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分《くすんごぶ》の代りに、振り廻して見るような滑稽《こっけい》も時々は出て来なければならなかった。
問題ははたして或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの抽象的《ちゅうしょうてき》な問題を、どこかで自分の思い通り活かしてやろうと決心した。
彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよく呑《の》み込んでいた。際《きわ》どい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それほど都合《つごう》の悪い態度はなかった。ただ議論のために議論をされるくらいなら、最初から取り合わない方がよっぽどましだった。それで彼女にはどうしても相手を地面の上に縛《しば》りつけておく必要があった。ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にいなかった。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至《ないし》お延、お秀の愛でも何でもなかった。ただ漫然《まんぜん》として空裏《くうり》に飛揚《ひよう》する愛であった。したがってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引き摺《ず》りおろさなければならなかった。
子供がすでに二人もあって、万事自分より世帯染《しょたいじ》みているお秀が、この意味において、遥《はる》かに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯《うけが》いながら、腹の中では、じれったがった。「そんな言葉の先でなく、裸でいらっしゃい、実力で相撲《すもう》を取りますから」と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事ができるだろうと思案した。
やがてお延の胸に分別《ふんべつ》がついた。分別とはほかでもなかった。この問題を活《い》かすためには、お秀を犠牲にするか、または自分を犠牲にするか、どっちかにしなければ、とうてい思う壺《つぼ》に入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。ただどこからか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とするところではなかった。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟《しげき》に対して、真偽の吟味《ぎんみ》などは、要《い》らざる斟酌《しんしゃく》であった。しかしそこにはまたそれ相応の危険もあった。お秀は怒《おこ》るに違《ちがい》なかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。だからお延は迷わざるを得なかった。
最後に彼女はある時機を掴《つか》んで起《た》った。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。
百二十七
「そう云われると、何と云っていいか解《わか》らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」
お秀の器量望《きりょうのぞ》みで貰《もら》われた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、羨《うら》やましい事実に違《ちがい》なかった。始めて津田からその話を聴《き》かされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬《しっと》を感じた。中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐《ふくしゅう》をしたような快感さえ覚えた。それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑《けいべつ》であった。それを表向《おもてむき》さも嬉《うれ》しい消息ででもあるように取扱かって、彼我《ひが》に共通するごとくに見せかけたのは、無論一片のお世辞《せじ》に過ぎなかった。もっと悪く云えば、一種の嘲弄《ちょうろう》であった。
幸いお秀はそこに気がつかなかった。そうして気がつかない訳であった。と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、生一本《きいっぽん》に愛された記憶ももたない彼女は、この能力の最大限がどのくらい強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。知らぬが仏《ほとけ》という諺《ことわざ》がまさにこの場合の彼女をよく説明していた。結婚の当時、自分の未来に夫の手で押しつけられた愛の判を、普通の証文のようなつもりで、いつまでも胸の中《うち》へしまい込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中で、真面目《まじめ》に受けるほど無邪気だったのである。
本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱《うろん》な言葉を通して、鋭どいお延からよく見透《みす》かされたのみではなかった。彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。それはお延の言葉を聴《き》いた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。ましてそれを夫の妹の前へ出すに至っては、どこにどんな意味があるのだろう。――これがお秀の表情であった。
実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、空々《そらぞら》しい女に過ぎなかった。彼女は「あら」と云った。
「まだその上に愛されてみたいの」
この挨拶《あいさつ》は平生のお延の注文通りに来た。しかし今の場合におけるお延に満足を与えるはずはなかった。彼女はまた何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。ところがそれを判然《はっきり》表現すると、「津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか」という露骨な言葉になるよりほかに途《みち》はなかった。思い切って、そう打
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