外へ出かかった時、彼はまた後《うしろ》から呼びとめられた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」
 ふり返った津田の鼻を葉巻の好い香《におい》が急に冒《おか》した。
「へえ、ありがとう、お蔭《かげ》さまで達者でございます」
「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕《ゆうべ》も岡本と或所で落ち合って、君のお父さんの噂《うわさ》をしたがね。岡本も羨《うらや》ましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇《ひま》になったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」
 津田は自分の父がけっしてこれらの人から羨《うら》やましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それは固《もと》より自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後《じせいおく》れですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」
 津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」
 津田は挨拶《あいさつ》に窮した。向うの口の重宝《ちょうほう》なのに比べて、自分の口の不重宝《ぶちょうほう》さが荷になった。彼は手持無沙汰《てもちぶさた》の気味で、緩《ゆる》く消えて行く葉巻の煙りを見つめた。
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」
 津田はこの子供に対するような、笑談《じょうだん》とも訓戒とも見分《みわけ》のつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外に逃《のが》れ出《で》た。

        十七

 その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑《にぎ》やかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾《のれん》だの碁会所《ごかいしょ》の看板だの鳶《とび》の頭《かしら》のいそうな格子戸作《こうしどづく》りだのを左右に見ながら、彼は彎曲《わんきょく》した小路《こうじ》の中ほどにある擦硝子張《すりガラスばり》の扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられた電鈴《ベル》が鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。窓のないその室《へや》は狭いばかりでなく実際暗かった。外部《そと》から急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。彼は寒そうに長椅子の片隅《かたすみ》へ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物|火鉢《ひばち》の周囲《まわり》を取り巻くようにして坐っていた。そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢の縁《ふち》に片手を翳《かざ》したまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へ甜《な》めるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持|身体《からだ》を横にして洋袴《ズボン》の膝頭《ひざがしら》を重ねたまま。
 電鈴《ベル》の鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥《いちべつ》の後《のち》また申し合せたように静かになってしまった。みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛を憚《はば》かって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。
 この陰気な一群《いちぐん》の人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華《はな》やかに彩《いろど》られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち竦《すく》むようにして閉《と》じ籠《こも》っているのである。
 津田は長椅子の肱掛《ひじかけ》に腕を載《の》せて手を額にあてた。彼は黙祷《もくとう》を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。
 その一人は事実彼の妹婿《いもとむこ》にほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚《びっくり》した。そんな事に対して比較的|無頓着《むとんじゃく》な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶《あいさつ》に窮したらしかった。
 他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に罹《かか》っているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、性《セックス》と愛《ラヴ》という問題についてむずかしい議論をした。
 妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで後《あと》のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後《ご》異常な結果が生れた。
 その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然|衝撃《ショック》を受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。
 すると診察所から紺《こん》セルの洋服を着た三十|恰好《がっこう》の男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。彼が隠袋《かくし》から紙入を出して金を払おうとする途端《とたん》に、看護婦が敷居の上に立った。彼女と見知り越《ごし》の津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。
「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に訊《き》いて下さい。明日《あした》か明後日《あさって》手術を受けに来て好いかって」
 奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗い室《へや》の戸口に現わした。
「今ちょうど二階が空《あ》いておりますから、いつでも御都合の宜《よろ》しい時にどうぞ」
 津田は逃《のが》れるように暗い室を出た。彼が急いで靴を穿《は》いて、擦硝子張《すりガラスばり》の大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯が点《つ》いた。

        十八

 津田の宅《うち》へ帰ったのは、昨日《きのう》よりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚《ひあし》は疾《と》くに傾いて、先刻《さっき》まで往来にだけ残っていた肌寒《はださむ》の余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。
 彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今|角《かど》の車屋の軒灯《けんとう》を明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子《こうし》を開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段《はしごだん》を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳《か》け出して来た。
「何をしているんだ」
 津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の裡《うち》に自分を牽《ひ》きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
 湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭《てぬぐい》を例の通り彼女の手から受け取って火鉢《ひばち》の傍《そば》を離れようとする夫を引きとめた。彼女は後《うし》ろ向《むき》になって、重《かさ》ね箪笥《だんす》の一番下の抽斗《ひきだし》から、ネルを重ねた銘仙《めいせん》の褞袍《どてら》を出して夫の前へ置いた。
「ちょっと着てみてちょうだい。まだ圧《おし》が好く利《き》いていないかも知れないけども」
 津田は煙《けむ》に巻かれたような顔をして、黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》のかかった荒い竪縞《たてじま》の褞袍《どてら》を見守《みま》もった。それは自分の買った品でもなければ、拵《こしら》えてくれと誂《あつら》えた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装《なり》をしているのは見っともないから」
「いつの間に拵えたのかね」
 彼が手術のため一週間ばかり家《うち》を空《あ》けなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前《にさんちまえ》の事であった。その上彼はその日から今日《きょう》に至るまで、ついぞ針を持って裁物板《たちものいた》の前に坐《すわ》った細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。
「布《きれ》は買ったのかい」
「いいえ、これあたしの御古《おふる》よ。この冬着ようと思って、洗張《あらいはり》をしたまま仕立てずにしまっといたの」
 なるほど若い女の着る柄《がら》だけに、縞《しま》がただ荒いばかりでなく、色合《いろあい》もどっちかというとむしろ派出《はで》過ぎた。津田は袖《そで》を通したわが姿を、奴凧《やっこだこ》のような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。
「とうとう明日《あした》か明後日《あさって》やって貰う事にきめて来たよ」
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょに随《つ》いて行っちゃいけないの。病院へ」
 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。

        十九

 津田の明《あく》る朝《あさ》眼を覚《さ》ましたのはいつもよりずっと遅かった。家の内《なか》はもう一片付《ひとかたづき》かたづいた後のようにひっそり閑《かん》としていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子《しょうじ》を開けた彼は、そこの火鉢の傍《そば》にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶《てつびん》が鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊《ねぼう》をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」
 彼は云い訳らしい事をいって、暦《こよみ》の上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指《さ》していた。
 顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳《ぜん》に向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥《くたび》れたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾《ふきん》を除《と》ろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」
 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっと訊《き》いてくる」
「今すぐ?」
 お延は吃驚《びっくり》して夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」
 彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散《けち》らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁《はんちょう》ほど右へ行った所にある自動電話へ馳《か》けつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君
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