《やりくち》一つでどう変化して行くか分らなかった。
「女はあさはかなもんだからな」
 この言葉を聴《き》いた小林は急に笑い出した。今まで笑ったうちで一番大きなその笑い方が、津田をはっと思わせた。彼は始めて自分が何を云っているかに気がついた。
「そりゃどうでもいいが、お秀が吉川へ行ってどんな事をしゃべったのか、叔父に話していたところを君が聴《き》いたのなら、教えてくれたまえ」
「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だから碌《ろく》に聴いちゃいなかったよ」
 こう云った小林は肝心《かんじん》なところへ来て、知らん顔をして圏外《けんがい》へ出てしまった。津田は失望した。その失望をしばらく味わった後《あと》で、小林はまた圏内《けんない》へ帰って来た。
「しかしもう少し待ってたまえ。否《いや》でも応《おう》でも聴かされるよ」
 津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った。
「なにお秀さんじゃない。お秀さんは直《じか》に来やしない。その代りに吉川の細君が来るんだ。嘘《うそ》じゃないよ。この耳でたしかに聴いて来たんだもの。お秀さんは細君の来る時間まで明言したくらいだ。おおかたもう少ししたら来るだろう」
 お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。

        百二十一

 津田の頭に二つのものが相継《あいつ》いで閃《ひら》めいた。一つはこれからここへ来るその吉川夫人を旨《うま》く取扱わなければならないという事前《じぜん》の暗示《あんじ》であった。彼女の方から病院まで足を運んでくれる事は、予定の計画から見て、彼の最も希望するところには違《ちがい》なかったが、来訪の意味がここに新らしく付け加えられた以上、それに対する彼の応答《おうとう》ぶりも変えなければならなかった。この場合における夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見を注《つ》ぎ込《こ》まれた後の夫人と、まだ反感を煽《あお》られない前の夫人とは、彼の眼に映るところだけでも、だいぶ違っていた。けれどもそこには平生の自信もまた伴なっていた。彼には夫人の持ってくる偏見と反感を、一場《いちじょう》の会見で、充分|引繰《ひっく》り返《かえ》して見せるという覚悟があった。少くともここでそれだけの事をしておかなければ、自分の未来が危なかった。彼は三分の不安と七分の信力をもって、彼女の来訪を待ち受けた。
 残る一つの閃《ひら》めきが、お延に対する態度を、もう一遍臨時に変更する便宜《べんぎ》を彼に教えた。先刻《さっき》までの彼は退屈のあまり彼女の姿を刻々に待ち設《もう》けていた。しかし今の彼には別途の緊張があった。彼は全然異なった方面の刺戟《しげき》を予想した。お延はもう不用であった。というよりも、来られてはかえって迷惑であった。その上彼はただ二人、夫人と差向いで話してみたい特殊な問題も控えていた。彼はお延と夫人がここでいっしょに落ち合う事を、是非共防がなければならないと思い定めた。
 附帯条件として、小林を早く追払《おっぱら》う手段も必要になって来た。しかるにその小林は今にも吉川夫人が見えるような事を云いながら、自分の帰る気色《けしき》をどこにも現わさなかった。彼は他《ひと》の邪魔になる自分を苦《く》にする男ではなかった。時と場合によると、それと知って、わざわざ邪魔までしかねない人間であった。しかもそこまで行って、実際気がつかずに迷惑がらせるのか、または心得があって故意に困らせるのか、その判断を確《しか》と他《ひと》に与えずに平気で切り抜けてしまうじれったい人物であった。
 津田は欠伸《あくび》をして見せた。彼の心持と全く釣り合わないこの所作《しょさ》が彼を二つに割った。どこかそわそわしながら、いかにも所在なさそうに小林と応対するところに、中断された気分の特色が斑《まだら》になって出た。それでも小林はすましていた。枕元にある時計をまた取り上げた津田は、それを置くと同時に、やむをえず質問をかけた。
「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」
 津田には彼の意味がほぼ解った。しかしまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気はなおさらなかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」
 冗談《じょうだん》じゃないと津田は腹の中で思った。
「何か用があるのかい」
「君はよく用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「しかし知らない人だからさ」
「知らない人だからちょっと会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。いったい僕は金持の家庭へ入った事もないし、またそんな人と交際《つきあ》った例《ためし》もない男だから、ついこういう機会に、ちょっとでもいいから、会っておきたくなるのさ」
「見世物《みせもの》じゃあるまいし」
「いや単なる好奇心だ。それに僕は閑《ひま》だからね」
 津田は呆《あき》れた。彼は小林のようなみすぼらしい男を、友達の内にもっているという証拠を、夫人に見せるのが厭《いや》でならなかった。あんな人と付合っているのかと軽蔑《けいべつ》された日には、自分の未来にまで関係すると考えた。
「君もよほど呑気《のんき》だね。吉川の奥さんが今日ここへ何しに来るんだか、君だって知ってるじゃないか」
「知ってる。――邪魔かね」
 津田は最後の引導《いんどう》を渡すよりほかに途《みち》がなくなった。
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰ってくれ」
 小林は別に怒《おこ》った様子もしなかった。
「そうか、じゃ帰ってもいい。帰ってもいいが、その代り用だけは云って行こう、せっかく来たものだから」
 面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用なら承《うけたまわ》ってもいい。しかしここには一文も持っていない。と云って、また外套《がいとう》のように留守《るす》へ取りに行かれちゃ困る」
 小林はにやにや笑いながら、じゃどうすればいいんだという問を顔色でかけた。まだ小林に聴《き》く事の残っている津田は、出立前《しゅったつぜん》もう一遍彼に会っておく方が便宜《べんぎ》であった。けれども彼とお延と落ち合う掛念《けねん》のある病院では都合《つごう》が悪かった。津田は送別会という名の下《もと》に、彼らの出会うべき日と時と場所とを指定した後で、ようやくこの厄介者《やっかいもの》を退去させた。

        百二十二

 津田はすぐ第二の予防策に取りかかった。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を取《と》り除《の》けて、その下から例のレターペーパーを同じラヴェンダー色の封筒を引き抜くや否や、すぐ万年筆を走らせた。今日は少し都合があるから、見舞に来るのを見合せてくれという意味を、簡単に書き下《くだ》した手紙は一分かかるかかからないうちに出来上った。気の急《せ》いた彼には、それを読み直す暇さえ惜かった。彼はすぐ封をしてしまった。そうして中味の不完全なために、お延がどんな疑いを起すかも知れないという事には、少しの顧慮も払わなかった。平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒《そそか》しくしたのみならず彼の心を一直線にしなければやまなかった。彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。
「ちょっと急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を宅《うち》までやって下さい」
 看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、どこに急な用事ができたのだろうという顔をして、宛名《あてな》を眺めた。津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。
「電車で行くようにして下さい」
 彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来てはせっかくの努力も無駄になるだけであった。
 二階へ帰って来た後《あと》でも、彼はそればかりが苦《く》になった。そう思うと、お延がもう宅《うち》を出て、電車へ乗って、こっちの方角へ向いて動いて来るような気さえした。自然それといっしょに頭の中に纏付《まつわ》るのは小林であった。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段《はしごだん》の上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。貴重な時間を無駄に費やさせられたあげく、頼むようにして帰って貰った彼の後姿《うしろすがた》を見送った津田は、それでももう少しで刻下《こっか》の用を弁ずるために、小林を利用するところであった。「面倒でも帰りにちょっと宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意してくれ」。こういう言葉がつい口の先へ出かかったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合がよかったろうにとさえ実は思ったのである。
 津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想《おも》いいたらない運命に到着すべく余儀なくされた。
 手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫はまた看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。そこを少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなくまた名宛《なあて》の苗字《みょうじ》を小綺麗《こぎれい》な二階建の一軒の門札《もんさつ》に見出《みいだ》した。彼は玄関へかかった。そこで手に持った手紙を取次に出たお時に渡した。
 ここまではすべての順序が津田の思い通りに行った。しかしその後《あと》には、書面を認《したた》める時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実が横《よこた》わっていた。手紙はすぐお延の手に落ちなかった。
 しかし津田の懸念《けねん》したように、宅《うち》にいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出かけたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。しかもそれは際《きわ》どい機会を旨《うま》く利用しようとする敏捷《びんしょう》な彼女の手腕を充分に発揮した結果であった。
 その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の留守《るす》から必然的に起る、時間の余裕を持て余すほど楽《らく》な午前を過ごした。午飯《ひるめし》を食べた後で、彼女は洗湯《せんとう》に行った。病院へ顔を出す前ちょっと綺麗《きれい》になっておきたい考えのあった彼女は、そこでずいぶん念入《ねんいり》に時間を費やした後《あと》、晴々《せいせい》した好い心持を湯上りの光沢《つやつや》しい皮膚《はだ》に包みながら帰って来ると、お時から嘘《うそ》ではないかと思われるような報告を聴《き》いた。
「堀の奥さんがいらっしゃいました」
 お延は下女の言葉を信ずる事ができないくらいに驚ろいた。昨日《きのう》の今日《きょう》、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。そんな意外な訪問があり得べきはずはなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえ訊《き》かなければ気がすまなかった。なぜ待たせておかなかったかも問題になった。しかし下女は何にも知らなかった。ただ藤井の帰りに通《とお》り路《みち》だからちょっと寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。
 お延は既定のプログラムをとっさの間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟をきめた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何らの不自然に陥《おち》いる痕迹《こんせき》なしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀の後《あと》を追《おっ》かけるようにして宅を出た。

        百二十三

 堀の家《うち》は大略《おおよそ》の見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停
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