事だもんだから、つい忘れちまった。しかし彼らは友達にしても、ただの友達じゃあるまい」
「何を云ってるんだ」
 津田はついその後《あと》へ馬鹿野郎と付け足したかった。
「いや、よほどの親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくってもよかろう」
 吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。しかしその裏に、津田とお延を貼《は》りつけて、裏表の意味を同時に眺める事は自由にできた。
「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事にしていれば間違はないんだから」
「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、そのくらいの事は心得ているんだ」
「そうか」
 小林はまた「そうか」という言葉を使った。この真面目《まじめ》くさった「そうか」が重なるたびに、津田は彼から脅《おび》やかされるような気がした。
「しかし君は僕などと違って聡明《そうめい》だからいい。他《ひと》はみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ」
「他《ひと》とは誰の事だい」
「先生でも奥さんでもさ」
 藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ見当《けんとう》がついていた。
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」
「君が正直で僕が偽物《ぎぶつ》なのか。その偽物がまた偉くって正直者は馬鹿なのか。君はいつまたそんな哲学を発明したのかい」
「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」
 津田の頭に妙な暗示が閃《ひら》めかされた。
「君旅費はもうできたのか」
「旅費はどうでもできるつもりだがね」
「社の方で出してくれる事にきまったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」
 こういう彼は、平気で自分の妹のお金《きん》さんを藤井に片づけて貰《もら》う男であった。
「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」
 津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君どこかに強奪《ゆす》る所はないかね」
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」
 岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった後《あと》の彼の財布は空《から》と同じ事であった。よしそれが手元にあったにしたところで、彼はこの場合小林のために金銭上の犠牲を払う気は起らなかった。第一事がそこまで切迫して来ない限り、彼は相談に応ずる必要を毫《ごう》も認めなかった。
 不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。
 その朝藤井へ行った彼は、そこで例《いつ》もするように昼飯の馳走《ちそう》になって、長い時間を原稿の整理で過ごしているうちに、玄関の格子《こうし》が開《あ》いたので、ひょいと自分で取次に出た。そうしてそこに偶然お秀の姿を見出《みいだ》したのである。
 小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。

        百十九

 しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯《からか》った。
「兄妹喧嘩《きょうだいげんか》をしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ」
「君はまた傍《そば》でそれを聴《き》いていたのか」
 小林は苦笑しながら頭を掻《か》いた。
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然《てんねんしぜん》耳へ入ったようなものだ。何しろしゃべる人がお秀さんで、しゃべらせる人が先生だからな」
 お秀にはどこか片意地で一本調子な趣《おもむき》があった。それに一種の刺戟《しげき》が加わると、平生の落ちつきが全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させるところに、津田とはまるで違った特色があった。叔父はまた叔父で、何でも構わず底の底まで突きとめなければ承知のできない男であった。単に言葉の上だけでもいいから、前後一貫して俗にいう辻褄《つじつま》が合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対する彼の態度であった。筆の先で思想上の問題を始終《しじゅう》取り扱かいつけている癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑《の》り移ってしまった結果は、そこによく現われた。彼は相手にいくらでも口を利かせた。その代りまたいくらでも質問をかけた。それが或程度まで行くと、質問という性質を離れて、詰問に変化する事さえしばしばあった。
 津田は心の中で、この叔父と妹と対坐《たいざ》した時の様子を想像した。ことによるとそこでまた一波瀾《ひとはらん》起したのではあるまいかという疑《うたがい》さえ出た。しかし小林に対する手前もあるので、上部《うわべ》はわざと高く出た。
「おおかためちゃくちゃに僕の悪口でも云ったんだろう」
 小林は御挨拶《ごあいさつ》にただ高笑いをした後で、こんな事を云った。
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
「僕だからしたのさ。彼奴《あいつ》だって堀の前なら、もっと遠慮すらあね」
「なるほどそうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、そっちのほうの消息はまるで解《わか》らないが、これでも妹はあるから兄妹の味ならよく心得ているつもりだ。君何だぜ。僕のような兄でも、妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ」
「そりゃ妹次第さ」
「けれどもそこはまた兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」
 小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が喧嘩《けんか》なんかするもんか。あんな奴《やつ》と」
 小林はますます笑った。彼は笑うたびに一調子《ひとちょうし》ずつ余裕を生じて来た。
「蓋《けだ》しやむをえなかった訳だろう。しかしそれは僕の云う事だ。僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪《ちんりん》している人間だ。喧嘩の結果がもしどこかにあるとすれば、それは僕の損にゃならない。何となれば、僕はいまだかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね。要するに喧嘩から起り得るすべての変化は、みんな僕の得《とく》になるだけなんだから、僕はむしろ喧嘩を希望してもいいくらいなものだ。けれども君は違うよ。君の喧嘩はけっして得にゃならない。そうして君ほどまた損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。ただ心得てるばかりじゃない、君はそうした心得の下《もと》に、朝から晩まで寝たり起きたりしていられる男なんだ。少くともそうしなければならないと始終《しじゅう》考えている男なんだ。好いかね。その君にして――」
 津田は面倒臭そうに小林を遮《さえ》ぎった。
「よし解《わか》った。解ったよ。つまり他《ひと》と衝突するなと注意してくれるんだろう。ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだから、なるべく事を穏便《おんびん》にしろという忠告なんだろう、君の主意は」
 小林は惚《とぼ》けた顔をしてすまし返った。
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれでいいがね。誤解のないように注意しておくが、僕は先刻《さっき》からお秀さんの事を問題にしているんだぜ、君」
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。あっちが不首尾になるという意味だろう」
「もちろんさ」
「ところが君それだけじゃないぜ。まだほかにも響いて来るんだぜ、気をつけないと」
 小林はそこで句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田ははたして平気でいる事ができなかった。

        百二十

 小林はここだという時機を捕《つら》まえた。
「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田を擒《とりこ》にしていた。
「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒ほかへ廻って来たんだぜ。その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」
 津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。
「そんな所は東京にないよ」
「いやあるんだ」
 津田は仕方なしに、頭の中でまたあれかこれかと物色して見た。しかしいくら考えても、見当らないものはやッぱり見当らなかった。しまいに小林が笑いながら、その宅《うち》の名を云った時に、津田ははたして驚ろいたように大きな声を出した。
「吉川? 吉川さんへまたどうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」
 津田は不思議がらざるを得なかった。
 ただ吉川と堀を結びつけるだけの事なら、津田にも容易にできた。強い空想の援《たすけ》に依る必要も何にもなかった。津田夫婦の結婚するとき、表向《おもてむき》媒妁《ばいしゃく》の労を取ってくれた吉川夫婦と、彼の妹にあたるお秀と、その夫の堀とが社交的に関係をもっているのは、誰の眼にも明らかであった。しかしその縁故で、この問題を提《ひっ》さげたお秀が、とくに吉川の門に向う理由はどこにも発見できなかった。
「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」
「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話を聴《き》いていると」
 津田はにわかにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。
「しかし君という男は、非常に用意周到なようでどこか抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。今度の事だって、そうじゃないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのは愚《ぐ》だよ。その上吉川の方へ向いて行くはずがないと思い込んで、初手《しょて》から高を括《くく》っているなんぞは、君の平生にも似合わないじゃないか」
 結果の上から見た津田の隙間《すきま》を探《さが》し出す事は小林にも容易であった。
「いったい君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事|宜《よろ》しく願ってあるんだろう。そこへお秀さんが馳《か》け込むのは当り前じゃないか」
 津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配をかけてはいけない。君が東京で何をしているか、ちゃんとこっちで解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせてやるだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。それは今から解釈して見ても冗談半分《じょうだんはんぶん》の訓戒に過ぎなかった。しかしもしそれをここで真面目《まじめ》一式な文句に転倒するものがあるとすれば、その作者はお秀であった。
「ずいぶん突飛《とっぴ》な奴《やつ》だな」
 突飛という性格が彼の家伝にないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。
「いったい何を云やがったろう、吉川さんで。――彼奴《あいつ》の云う事を真向《まとも》に受けていると、いいのは自分だけで、ほかのものはみんな悪くなっちまうんだから困るよ」
 津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との縁合《えんあい》、それらのものがお秀の遣口
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