し嘘《うそ》を吐《つ》く性分《しょうぶん》だが、私の家《うち》のような少人数《こにんず》な家族に、嘘付《うそつき》が二人できるのは、少し考えものですからね。と答えた」
嘘吐《うそつき》という言葉がいつもより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分を肯《うけ》がう男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的《えんせいてき》にならない男であった。むしろその反対に生活する事のできるために、嘘が必要になるのだぐらいに考える男であった。彼は、今までこういう漠然《ばくぜん》とした人世観の下《もと》に生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただ行《おこな》ったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。
「愛と虚偽」
自分の読んだ一口噺《ひとくちばなし》からこの二字を暗示された彼は、二つのものの関係をどう説明していいかに迷った。彼は自分に大事なある問題の所有者であった。内心の要求上是非共それを解決しなければならない彼は、実験の機会が彼に与えられない限り、頭の中でいたずらに考えなければならなかった。哲学者でない彼は、自身に今まで行って来た人世観をすら、組織正しい形式の下に、わが眼の前に並べて見る事ができなかったのである。
百十六
津田は纏《まと》まらない事をそれからそれへと考えた。そのうちいつか午過《ひるす》ぎになってしまった。彼の頭は疲れていた。もう一つ事を長く思い続ける勇気がなくなった。しかし秋とは云いながら、独《ひと》り寝ているには日があまりに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。そうしてまたお延の方に想《おも》いを馳《は》せた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に予期していた彼は横着《おうちゃく》であった。今まで彼女の手前|憚《はば》からなければならないような事ばかりを、さんざん考え抜いたあげく、それが厭《いや》になると、すぐお延はもう来そうなものだと思って平気でいた。自然頭の中に湧《わ》いて出るものに対して、責任はもてないという弁解さえその時の彼にはなかった。彼の見たお延に不可解な点がある代りに、自分もお延の知らない事実を、胸の中《うち》に納めているのだぐらいの料簡《りょうけん》は、遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然《はっきり》した言葉になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった。
お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は固《もと》より姿を見せなかった。津田は面白くなかった。先刻《さっき》から近くで誰かがやっている、彼の最も嫌《きらい》な謡《うたい》の声が、不快に彼の耳を刺戟《しげき》した。彼の記憶にある謡曲指南《ようきょくしなん》という細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建の家《うち》であった。二階が稽古《けいこ》をする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方がむやみに大きく響いた。他《ひと》が勝手にやっているものを止《や》めさせる権利をどこにも見出《みいだ》し得ない彼は、彼の不平をどうする事もできなかった。彼はただ早く退院したいと思うだけであった。
柳の木の後《うしろ》にある赤い煉瓦造《れんがづく》りの倉に、山形《やまがた》の下に一を引いた屋号のような紋が付いていて、その左右に何のためとも解《わか》らない、大きな折釘《おれくぎ》に似たものが壁の中から突き出している所を、津田が見るとも見ないとも片のつかない眼で、ぼんやり眺めていた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かが階子段《はしごだん》を、どしどし上《のぼ》って来た。津田はおやと思った。この足音の調子から、その主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されていた。
彼の予覚はすぐ事実になった。彼が室《へや》の入口に眼を転ずると、ほとんどおッつかッつに、小林は貰い立ての外套《がいとう》を着たままつかつか入って来た。
「どうかね」
彼はすぐ胡坐《あぐら》をかいた。津田はむしろ苦しそうな笑いを挨拶《あいさつ》の代りにした。何しに来たんだという心持が、顔を見ると共にもう起っていた。
「これだ」と彼は外套の袖《そで》を津田に突きつけるようにして見せた。
「ありがとう、お蔭《かげ》でこの冬も生きて行かれるよ」
小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。しかし津田はお延からそれを聴《き》かされていなかったので、別に皮肉とも思わなかった。
「奥さんが来たろう」
小林はまたこう訊《き》いた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇《ちゅうちょ》した。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。それを彼の口からここで繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。しかしどっちが成功するかそこはとっさの際にきめる訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに縋《すが》りついた。
「君があんまり苛《いじ》めるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯《からか》い過ぎたんだ、可哀想《かわいそう》に。泣きゃしなかったかね」
津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目《でたらめ》さ。つまり奥さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので、天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それでちょっとした事まで苦《く》にするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、彼奴《あいつ》に調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんから聴《き》いたろう」
「いいや聴かない」
二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度《そんたく》しようとする試みが、同時にそこに現われた。
百十七
津田が小林に本音《ほんね》を吹かせようとするところには、ある特別の意味があった。彼はお延の性質をその著るしい断面においてよく承知していた。お秀と正反対な彼女は、飽《あ》くまで素直《すなお》に、飽くまで閑雅《しとやか》な態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、どうしてもまた彼の自由にならない点を、同様な程度でちゃんともっていた。彼女の才は一つであった。けれどもその応用は両面に亘《わた》っていた。これは夫に知らせてならないと思う事、または隠しておく方が便宜《べんぎ》だときめた事、そういう場合になると、彼女は全く津田の手にあまる細君であった。彼女が柔順であればあるほど、津田は彼女から何にも掘り出す事ができなかった。彼女と小林の間に昨日《きのう》どんなやりとりが起ったか、それはお秀の騒ぎで委細を訊《き》く暇もないうちに、時間が経《た》ってしまったのだから、事実やむをえないとしても、もしそういう故障のない時に、津田から詳しいありのままを問われたら、お延はおいそれと彼の希望通り、綿密な返事を惜まずに、彼の要求を満足させたろうかと考えると、そこには大きな疑問があった。お延の平生から推して、津田はむしろごまかされるに違ないと思った。ことに彼がもしやと思っている点を、小林が遠慮なくしゃべったとすれば、お延はなおの事、それを聴《き》かないふりをして、黙って夫の前を通り抜ける女らしく見えた。少くとも津田の観察した彼女にはそれだけの余裕が充分あった。すでにお延の方を諦《あき》らめなければならないとすると、津田は自分に必要な知識の出所《でどころ》を、小林に向って求めるよりほかに仕方がなかった。
小林は何だかそこを承知しているらしかった。
「なに何にも云やしないよ。嘘《うそ》だと思うなら、もう一遍お延さんに訊《き》いて見たまえ。もっとも僕は帰りがけに悪いと思ったから、詫《あや》まって来たがね。実を云うと、何で詫まったか、僕自身にも解らないくらいのものさ」
彼はこう云って嘯《うそぶ》いた。それからいきなり手を延べて、津田の枕元にある読みかけの書物を取り上げて、一分ばかりそれを黙読した。
「こんなものを読むのかね」と彼はさも軽蔑《けいべつ》した口調で津田に訊《き》いた。彼はぞんざいに頁《ページ》を剥繰《はぐ》りながら、終りの方から逆に始めへ来た。そうしてそこに岡本という小さい見留印《みとめいん》を見出《みいだ》した時、彼は「ふん」と云った。
「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」
「そんな事は知らないよ」
「知らないはずはあるまい。だってお延さんの里《さと》じゃないか」
「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」
「そうか」
この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。
「岡本はお延の叔父《おじ》だぜ、君知らないのか。里《さと》でも何でもありゃしないよ」
「そうか」
小林はまた同じ言葉を繰り返した。津田はなお不愉快になった。
「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べてやろうか」
小林は「えへへ」と云った。「貧乏すると他《ひと》の財産まで苦になってしようがない」
津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。
「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当のところ」
こう云う態度はまさしく彼の特色であった。そうしていつでも二様に解釈する事ができた。頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度こっちが馬鹿にされているのだと思い出すと、また際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。彼に対する津田は実のところ半信半疑の真中に立っていた。だからそこに幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。ただ相手をつけあがらせない用心をするよりほかに仕方がなかった彼は、ただ微笑した。
「少し借りてやろうか」
「借りるのは厭《いや》だ。貰《もら》うなら貰ってもいいがね。――いや貰うのも御免だ、どうせくれる気遣《きづかい》はないんだから。仕方がなければ、まあ取るんだな」小林はははと笑った。「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取って行くかな」
津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。
「時にいつ立つんだね」
「まだしっかり判らない」
「しかし立つ事は立つのかい」
「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」
「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君のために送別会を開いてやろうというのだ」
今日小林から充分な事が聴《き》けなかったら、その送別会でも利用してやろうと思いついた津田は、こう云って予備としての第二の機会を暗《あん》に作り上げた。
百十八
故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へはなかなか持って行かれない小林に対して、この注意はむしろ必要かも知れなかった。彼はいつまでも津田の問に応ずるようなまた応じないような態度を取った。そうしてしつこく自分自身の話題にばかり纏綿《つけまつ》わった。それがまた津田の訊《き》こうとする事と、間接ではあるが深い関係があるので、津田は蒼蠅《うるさ》くもあり、じれったくもあった。何となく遠廻しに痛振《いたぶ》られるような気もした。
「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。
津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。
「親類じゃない、ただの友達だよ。いつかも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」
「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の
前へ
次へ
全75ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング