慎《つつ》しんでいた。ところがお秀との悶着《もんちゃく》が、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲《たた》き破った。しかもお延自身|毫《ごう》もそこに気がつかなかった。彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。だから津田にもまるで別人《べつにん》のように快よく見えた。
二人はこういう風で、いつになく融《と》け合った。すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。
二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。きっとお秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向ってやるに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。――ここまでは二人の一致する点であった。それから先が肝心《かんじん》の善後策になった。しかしそこへ来ると意見が区々《まちまち》で、容易に纏《まと》まらなかった。
お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。しかし津田は首を掉《ふ》った。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。これには津田も大した違存《いぞん》はなかった。たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼らは考えた。
しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具《そなわ》っていた。けれどもそこにはまた一種の困難があった。それほど親しく近づき悪《にく》い吉川に口を利《き》いて貰《もら》おうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説《くど》き落さなければならなかった。ところがその細君はお延にとって大の苦手《にがて》であった。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善《なかよし》の津田はまた充分|成効《せいこう》の見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。しまいにお延はとうとう我《が》を折った。
事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした後《あと》で心持よく別れた。
百十四
前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外|気易《きやす》く眠る事ができた。翌日《あくるひ》もまた透《す》き通るような日差《ひざし》を眼に受けて、晴々《はればれ》しい空気を篏硝子《はめガラス》の外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、どことなしに秋の情趣を唆《そそ》った。
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」
洗濯屋の男は、俗歌を唄《うた》いながら、区切《くぎり》区切へシッシッシという言葉を入れた。それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。
彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ上《のぼ》って、その白いものを隙間《すきま》なく秋の空へ広げた。ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作《しょさ》は単調であった。しかし勤勉であった。それがはたして何を意味しているか津田には解《わか》らなかった。
彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を憶《おも》い浮べた。彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、あまりに漠然《ばくぜん》過ぎた。それを纏《まと》めようとすると、いつでも吉川夫人が現われた。平生から自分の未来を代表してくれるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。
一にはこの間訪問した時からの引《ひっ》かかりがあった。その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。彼にはその後《あと》を聴《き》くまいとする努力があった。また聴こうとする意志も動いた。すでに封を切ったものが彼女であるとすれば、中味を披《ひら》く権利は自分にあるようにも思われた。
二には京都の事が気になった。軽重《けいちょう》を別にして考えると、この方がむしろ急に逼《せま》っていた。一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。まだ四五日はどうしても動く事のできない身体《からだ》を持ち扱った彼は、昨日《きのう》お延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へやろうとしたくらいであった。それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口《やりくち》だと信じていた。
お延がなぜこういう用向《ようむき》を帯びて夫人を訪《たず》ねるのを嫌《きら》ったのか、津田は不思議でならなかった。黙っていてもそんな方面へ出入《でいり》をしたがる女のくせに。と彼はその時考えた。夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵《こし》らえて貰《もら》ったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。しかしどうしても引き受けたがらないお延を、たって強《し》いる気もまたその場合の彼には起らなかった。それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。しかしその理由を述べる代りに、津田ならきっと成効《せいこう》するに違《ちがい》ないからと云った。成効するにしても、病院を出た後《あと》でなければ会う訳に行かないんだから、遅くなる虞《おそ》れがあると津田が注意した時、お延はまた意外な返事を彼に与えた。彼女は夫人がきっと病院へ見舞に来るに違ないと断言した。その時機を利用しさえすれば、一番自然にまた一番簡単に事が運ぶのだと主張した。
津田は洗濯屋の干物《ほしもの》を眺めながら、昨日《きのう》の問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰《たぐ》り寄せて点検した。すると吉川夫人は見舞に来てくれそうでもあった。また来てくれそうにもなかった。つまりお延がなぜ来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。彼は芝居の食堂で晩餐《ばんさん》の卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。けれどもその会話のどこからこの予言が出て来たかの点になると、自分に解らないものとして投げてしまうよりほかに手はなかった。彼はすでに幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えてくれなかった幾分の直覚を、お延に許していた。その点でいつでも彼女を少し畏《おそ》れなければならなかった彼には、杜撰《ずざん》にそこへ触れる勇気がなかった。と同時に、全然その直覚に信頼する事のできない彼は、何とかしてこっちから吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。彼はすぐ電話を思いついた。横着にも見えず、ことさらでもなし、自然に彼女がここまで出向いて来るような電話のかけ方はなかろうかと苦心した。しかしその苦心は水の泡《あわ》を製造する努力とほぼ似たものであった。いくら骨を折って拵《こしら》えても、すぐ後から消えて行くだけであった。根本的に無理な空想を実現させようと巧《たく》らんでいるのだから仕方がないと気がついた時、彼は一人で苦笑してまた硝子越《ガラスごし》に表を眺めた。
表はいつか風立《かぜだ》った。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。それを掠《かす》めるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。
百十五
下から上《あが》って来た医者には、その時の津田がいかにも退屈そうに見えた。顔を合せるや否や彼は「いかがです」と訊《き》いた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。それから彼は津田のためにガーゼを取り易えてくれた。
「まだ創口《きずぐち》の方はそっとしておかないと、危険ですから」
彼はこう注意して、じかに局部を抑《おさ》えつけている個所を少し緩《ゆる》めて見たら、血が煮染《にじ》み出したという話を用心のためにして聴《き》かせた。
取り易《か》えられたガーゼは一部分に過ぎなかった。要所を剥《は》がすと、血が迸《ほとば》しるかも知れないという身体《からだ》では、津田も無理をして宅《うち》へ帰る訳に行かなかった。
「やッぱり予定通りの日数《にっすう》は動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね」
医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」
それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がお有《あり》になる訳でもないんでしょう」
「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」
「はあ。――しかしもう直《じき》です。もう少しの辛防《しんぼう》です」
これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ込《こ》み合《あ》わないためか、そこへ坐《すわ》って二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話《ひとくちばなし》が、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑《けんぎ》をかけて、是非その看護婦を殴《なぐ》らせろと、医局へ逼《せま》った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽《こっけい》であった。こういう性質《たち》の人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出《みいだ》す事ができなかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪《と》られた。そうしてその裏側へ暗《あん》に自分の長所を点綴《てんてつ》して喜んだ。だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。
医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括《くく》りつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。
彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
彼はお延の置いて行った書物の中《うち》から、その一冊を抽《ぬ》いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯《うな》ずかせるような趣《おもむき》がそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔《ヒューモア》を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応《こた》えなかった。頭にさえ呑《の》み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然|下《しも》のようなのが彼の眼に触れた。
「娘の父が青年に向って、あなたは私《わたし》の娘を愛しておいでなのですかと訊《き》いたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんのためなら死のうとまで思っているんです。あの懐《なつ》かしい眼で、優しい眼遣《めづか》いをただの一度でもしていただく事ができるなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうという崖《がけ》の上から、岩の上へ落ちて、めちゃくちゃな血だらけな塊《かたま》りになって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首を掉《ふ》って、実を云うと、私も少
前へ
次へ
全75ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング