の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実《じつ》を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。
 これはお延自身に解っている側《がわ》の消息中《しょうそくちゅう》で、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らない間《ま》に、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑《さいぎ》の眼《め》から、彼女は運よく免《まぬ》かれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起った際《きわ》どい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡《ひろ》げる役を勤めたお延は、吾知《われし》らず儲《もう》けものをしたのと同じ事になったのである。
 彼女はなぜ岡本が強《し》いて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅《うち》へ昨日《きのう》行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数《てかず》を省《はぶ》く事ができた。むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
 二人はそれを二人の顔つきから知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段《はしごだん》を上《あが》って、また室《へや》の入口にそのすらりとした姿を現わした刹那《せつな》であった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。そこにはほかに何《なん》にもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴《シムボル》であるかをほとんど知らなかった。ただ一種の恰好《かっこう》をとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉《うれ》しい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。
 その時二人の微笑はにわかに変った。二人は歯を露《あら》わすまでに口を開《あ》けて、一度に声を出して笑い合った。
「驚ろいた」
 お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから彼奴《あいつ》に電話なんかかけるなって云うんだ」
 二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教《キリストきょう》じゃないでしょうね」
「なぜ」
「なぜでも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「真面目《まじめ》くさった説法をするからかい」
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」
「彼奴は理窟屋《りくつや》だよ。つまりああ捏《こ》ね返《かえ》さなければ気がすまない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生《なま》じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の傍《そば》にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終《しじゅう》見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
 津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。

        百十二

 久しぶりに夫と直《じか》に向き合ったような気のしたお延は嬉《うれ》しかった。二人の間《あいだ》にいつの間《ま》にかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々《はればれ》しい心持になった。
 彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に促《うな》がした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女はついに酬《むく》いられた。少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻《はたん》は、取《とり》も直《なお》さず彼女にとって復活の曙光《しょこう》であった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色《ばらいろ》の空を、薄明るく眺める事ができた。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口から迸《ほと》ばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍《にぶ》い瞬《まばた》きを見せた。しかしそれらはもう遠い距離に退《しりぞ》いた。少くともさほど苦《く》にならなかった。耳に入れた刹那《せつな》に起った昂奮《こうふん》の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
 夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊《き》かれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気《おぼろげ》に薄墨《うすずみ》で描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何《なん》にも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾《はらん》が、ああまで際《きわ》どくならずにすんだなら、お延は行《いき》がかり上《じょう》、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探《さぐ》らなければならない順序だったのである。
 お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが辛《つら》くて耐《たま》らないとはけっして考えなかった。それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩《たた》き込んでおく方が得策だと思案した。
 こう決心するや否や彼女は嘘《うそ》を吐《つ》いた。それは些細《ささい》の嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘《わた》って、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。
 その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。お蔭《かげ》で助かったよ」
 お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随《つ》いて、すぐ彼女の口を滑《すべ》って出てしまった。
「昨日《きのう》岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰《もら》うためなのよ」
 津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然|跳《は》ねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間と経《た》たないうちに、どこからそんな好意が急に湧《わ》いて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。それをお延はこう説明した。
「そりゃ厭《いや》なのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」
「叔父さんに訳を話したのかい」
「ええ、そりゃずいぶん辛《つら》かったの」
 お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵《こしら》えて貰《もら》っていた。
「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日《きょう》までして来たんですもの。だからなおきまりが悪いわ」
 自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく呑《の》み込めた。
「よくできたね」
「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪《にく》いだけよ」
「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃《そろ》っているからな」
 津田はかえって自尊心を傷《きずつ》けられたような顔つきをした。お延はそれを取《と》り繕《つく》ろうように云った。
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間《こないだ》からそう云ってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」
 津田はお延の指を眺めた。そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。

        百十三

 二人はいつになく融《と》け合った。
 今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知《われし》らず弛《ゆる》んだ。自分の父が鄙吝《ひりん》らしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念《けねん》、あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊《みくび》りはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、なるべく京都の方面に曖昧《あいまい》な幕を張り通そうとした警戒が解けた。そうして彼はそれに気づかずにいた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。お延にはそれが嬉《うれ》しかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。
 同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の趣《おもむき》が出た。余事はしばらく問題外に措《お》くとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。そうしてそれはこう云う因果《いんが》から来た。普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥《はる》か余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴《ふいちょう》した。それだけならまだよかった。彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。彼のお延に匂《にお》わせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那《わかだんな》であった。必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂《うれい》はけっしてなかった。お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責《げんせき》を彼女に対して背負《しょ》って立っていたのと同じ事であった。利巧《りこう》な彼は、財力に重きを置く点において、彼に優《まさ》るとも劣らないお延の性質をよく承知していた。極端に云えば、黄金《おうごん》の光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕《とりつくろ》わなければならないという不安があった。ことに彼はこの点においてお延から軽蔑《けいべつ》されるのを深く恐れた。堀に依頼して毎月《まいげつ》父から助《す》けて貰《もら》うようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。必然の勢い彼女はそこに不満を抱《いだ》かざるを得なかった。しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊《たんぱく》でないのを恨《うら》んだ。彼女はただ水臭いと思った。なぜ男らしく自分の弱点を妻の前に曝《さら》け出《だ》してくれないのかを苦《く》にした。しまいには、それをあえてしないような隔《へだた》りのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。するとその態度がまた木精《こだま》のように津田の胸に反響した。二人はどこまで行っても、直《じか》に向き合う訳に行かなかった。しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないように
前へ 次へ
全75ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング