百九
「実は先刻《さっき》から云おうか止《よ》そうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑《ひや》かされて見ると、私だって黙って帰るのが厭《いや》になります。だから云うだけの事はここで云ってしまいます。けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合《わけあい》からです」
お秀の説明はこういう言葉で始まった。それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼らは黙ってその後《あと》を待った。しかしお秀はもう一遍念を押した。
「少しや真面目《まじめ》に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」
こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ嫂《ねえ》さんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。いつもの兄妹喧嘩《きょうだいげんか》になったら、その時に止《と》めていただけばそれまでですから」
お延は微笑して見せた。しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日《きょう》まで云わずにいました。それを今改めてあなた方のお揃《そろ》いになったところで申してしまうのです。それはほかでもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何《なん》にも考えていらっしゃらない方《かた》だという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他《ひと》が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」
この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。彼女はただ呆《あき》れるばかりであった。幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
ここまで来たお秀は急に後を継《つ》ぎ足《た》した。二人の中《うち》の一人が自分を遮《さえ》ぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして貰《もら》いたいというのではありません。もうその時機は過ぎました。有体《ありてい》にいうと、その時機は今日過ぎたのです。実はたった今過ぎました。あなた方の気のつかないうちに、過ぎました。私は何事も因縁《いんねん》ずくと諦《あき》らめるよりほかに仕方がありません。しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです」
お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、判然《はっきり》した観念がなかった。したがってそれを聴く好奇心があった。だから黙っていた。
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云えるほど簡単です。しかし多分あなた方には解らないでしょう。あなた方はけっして他《ひと》の親切を受ける事のできない人だという意味に、多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。人間らしく嬉《うれ》しがる能力を天《てん》から奪われたと同様に見えるのです。兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。私から見ればそれがまるで逆です。人間としてまるで逆なのです。だから大変な不幸なのです。そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。嫂《ねえ》さんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。つまりこのお金を断ることによって、併《あわ》せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。嫂さんも逆です。嫂さんは妹の実意を素直《すなお》に受けるために感じられる好い心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じない方《かた》なのです」
お延は黙っていられなくなった。しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。彼女を遮《さえ》ぎろうとするお延の出鼻を抑《おさ》えつけるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。
百十
「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直《じき》です。そんなに長くかかりゃしません」
お秀の断り方は妙に落ちついていた。先刻《さっき》津田と衝突した時に比《くら》べると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂《げっこう》から沈静の方へ推《お》し移って来た。それがこの場合いかにも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。嫂《ねえ》さんも考えて下さい」
考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁《きべん》としか受取れなかった。ことにお延にはそう見えた。しかしお秀は真面目《まじめ》であった。
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば金額《かねだか》は問題じゃありません。少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば、私はいつでもそれを利用する気なのです。私は今日《きょう》ここでできるだけの努力をしました。そうしてみごとに失敗しました。ことに嫂さんがおいでになってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。私が妹として兄さんに対する執着を永久に放《ほう》り出《だ》さなければならなくなったのはその時です。――嫂さん、後生《ごしょう》ですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」
お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に解《わか》りました。あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今ここで拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、かえってよく解るように思われますから、私はもう何《なん》にも伺いません。しかし私には自分を説明する必要がまだあります。そこは是非聴いていただかなければなりません」
お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。しかし初手《しょて》から勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅《うち》から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」
お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに途《みち》はないのだという事もいっしょに説明します。兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻《さっき》そういう問を私におかけになりました。私はどっちも同《おんな》じだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」
「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。彼の頭に妹のいう意味は判然《はっきり》入った。けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。彼は先刻から蒼蠅《うる》さいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。愛嬌《あいきょう》もなければ気高《けだか》くもなかった。ただ厄介《やっかい》なだけであった。
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」
すでに諦《あき》らめていたお秀は、別に恨《うら》めしそうな顔もしなかった。ただこう云った。
「これは良人《うち》が立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、良人ではお父さんの方へ義理ができて、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。私もそんな事で良人《うち》を煩《わずら》わせるのは厭《いや》です。だからお断りをしておきますが、これは良人とは関係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。今の私はなまじいお礼を云っていただくより、ただ黙って受取っておいて下さる方が、かえって心持が好くなっているのです。問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。単に私のためです。兄さん、私のためにどうぞそれを受取って下さい」
お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔には何《なん》という合図《あいず》の表情も見えなかった。彼女は仕方なしにお秀を送って階子段《はしごだん》を降りた。二人は玄関先で尋常の挨拶《あいさつ》を交《と》り換《かわ》せて別れた。
百十一
単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面《シーン》でその相手になろうとは思わなかった。相手になった後《あと》でも、それが偶然の廻《まわ》り合《あわ》せのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果《いんが》を迹付《あとづ》けて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。すべてお秀が背負《しょ》って立たなければならないという意味であった。したがってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚《や》ましい点は容易に見出《みい》だされなかった。
この会見からお延の得た収獲は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持《も》ち来《きた》されそうに見える葛藤《かっとう》さえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。ただしそれには、津田が飽《あ》くまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。そこへ行くと彼女には七分通《しちぶどお》りの安心と、三分方《さんぶがた》の不安があった。その三分方の不安を、今日《きょう》の自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫
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