しが嫂さんに対して面目《めんぼく》なくなるだけじゃありませんか」
 沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を利《き》かなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」
 お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
「あたしにはどっちだって同《おん》なじ事です」
「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや嫂《ねえ》さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにも辛《つら》いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。実は昨日《きのう》嫂さんから電話がかかった時、すぐ来《き》ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅《うち》に用があったし、午《ひる》からはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損《きそこ》なっちまったんです。元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」
 お延はなお黙っている津田の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「あなた何とかおっしゃいよ」
「何て」
「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭《いや》だよ」
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走《かんばし》った声で弁解した。お延は元通りの穏やかな調子を崩《くず》さなかった。
「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお厭《いや》なら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」
 お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。

        百七

 三人は妙な羽目に陥《おちい》った。行《いき》がかり上《じょう》一種の関係で因果《いんが》づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席を外《はず》す事は無論できなくなった。彼らはそこへ坐《すわ》ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
 しかも傍《はた》から見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。彼らは他《ひと》から注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。けれども彼らは争わなければならなかった。彼らの背後《せなか》に背負《しょ》っている因縁《いんねん》は、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らを操《あやつ》った。
 しまいに津田とお秀の間に下《しも》のような問答が起った。
「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊《たんぱく》に云っちまったらいいじゃないか」
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり兄妹《きょうだい》らしくして下されば、それでいいというだけです。それからお父さんにすまなかったと本気に一口《ひとくち》おっしゃりさえすれば、何でもないんです」
「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫《わび》じゃありません。心からの後悔です」
 津田はたかがこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫|様《よう》が空々《そらぞら》しいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前《いちにんまえ》の男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに謝罪《あやま》ったんでしょう」
「でなければ何も詫《あやま》る必要はないじゃないか」
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」
 津田は口を閉じた。お秀はすぐ乗《の》しかかって行った。
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃお止《よ》しよ。何も無理に貰《もら》おうとは云わないんだから」
「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」
「いつ」
「先刻《さっき》からそう云っていらっしゃるんです」
「言がかりを云うな、馬鹿」
「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」
 津田は一種|嶮《けわ》しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪《ぞうお》が輝やいた。けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用《いりよう》だ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」
 お秀の手先が怒りで顫《ふる》えた。両方の頬《ほお》に血が差した。その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層|鮮《あざ》やかであった。しかし彼女の言葉|遣《づか》いだけはそれほど変らなかった。怒りの中《うち》に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
「嫂《ねえ》さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」
「ええ良人《うち》には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別《べつ》ッこなのね」
「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」
「だって――」
 お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵《こしら》えるだけなのよ」
 彼女はこう云いながら、昨日《きのう》岡本の叔父《おじ》に貰って来た小切手を帯の間から出した。

        百八

 彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の行《ゆき》がかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心の中《うち》で祈ったのである。会心の微笑を洩《も》らしながら首肯《うな》ずいて、それを鷹揚《おうよう》に枕元へ放《ほう》り出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所《でどころ》について、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。
 不幸にして津田にはお延の所作《しょさ》も小切手もあまりに突然過ぎた。その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣《おもむき》を異《こと》にしていた。彼は不思議そうに小切手を眺めた。それからゆっくり訊《き》いた。
「こりゃいったいどうしたんだい」
 この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を恨《うら》めしく摧《くじ》いた。彼女の予期は外《はず》れた。
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」
 こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が真面目《まじめ》くさってその後を訊く事を非常に恐れた。それは夫婦の間に何らの気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露《ばくろ》するに過ぎなかった。
「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で解《わか》る事なんだから」
 これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」
 津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。しかし金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑《けいべつ》する点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。それで彼は黙っていた。しかしそれだからまたお延に一口の礼も云わなかった。
 彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲《りゅういん》の下《さが》るような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。
 先刻《さっき》から二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうして懐《ふところ》から綺麗な女持の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
 彼女は紙入の中から白紙《はくし》で包んだものを抜いて小切手の傍《そば》へ置いた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」
 津田に話しかけたお秀は暗《あん》にお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
 二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた辛防強《しんぼうづよ》くいつまでもそれを聴《き》いていた。しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」
 津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
 お秀は屹《きっ》となった。
「どっちも本当です」
 この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒《きほう》を挫《くじ》いた。お延にはなおさらであった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱《ほて》っていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜《くや》しいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎《かげろ》った。しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴《き》くよりほかに途《みち》がなかった。二人は惹《ひ》きつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼らは遮《さえ》ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝《つ》いて出た。

       
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