ボル》ではなかった。不自然に抑《おさ》えつけられた無言の瞬間にはむしろ物凄《ものすご》い或物が潜んでいた。
二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の側《がわ》から入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵《あんど》であった。困ったという心持と、助かったという心持が、包《つつ》み蔵《かく》す余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支《さしつか》えないという証左《しょうさ》を、永く心の中《うち》に掴《つか》んだ。しかしそれは秘密であった。とっさの場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下《こっか》の目的としなければならなかった。彼女は蒼白《あおしろ》い頬《ほお》に無理な微笑を湛《たた》えて津田を見た。そうしてそれがちょうどお秀のふり返るのと同時に起った所作《しょさ》だったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。薄赤い血潮が覚えずお秀の頬に上《のぼ》った。
「おや」
「今日《こんち》は」
軽い挨拶《あいさつ》が二人の間に起った。しかしそれが済むと話はいつものように続かなかった。二人とも手持無沙汰《てもちぶさた》に圧迫され始めなければならなかった。滅多《めった》な事の云えないお延は、脇《わき》に抱えて来た風呂敷包を開けて、岡本の貸してくれた英語の滑稽本《こっけいぼん》を出して津田に渡した。その指の先には、お秀が始終《しじゅう》腹の中で問題にしている例の指輪が光っていた。
津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさら頁《ページ》を翻《ひるが》えして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。彼はその一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言《ふたことみこと》ほど口を利《き》いた。それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉《のど》から圧《お》し出したようなものであった。
お延はまた懐中《ふところ》から一通の手紙を出した。
「今|来《き》がけに郵便函《ゆうびんばこ》の中を見たら入っておりましたから、持って参りました」
お延の言葉は几帳面《きちょうめん》に改たまっていた。津田と差向いの時に比べると、まるで別人《べつにん》のように礼儀正しかった。彼女はその形式的なよそよそしいところを暗《あん》に嫌《きら》っていた。けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉|遣《づか》いを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。
手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。
津田は封筒を切る前に彼女に云った。
「お延|駄目《だめ》だとさ」
「そう、何が」
「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」
津田の云《い》い方《かた》は珍らしく真摯《しんし》の気に充《み》ちていた。お秀に対する反抗心から、彼はいつの間にかお延に対して平《ひら》たい旦那様《だんなさま》になっていた。しかもそこに自分はまるで気がつかずにいた。衒《てら》い気《け》のないその態度がお延には嬉《うれ》しかった。彼女は慰さめるような温味《あたたかみ》のある調子で答えた。言葉遣いさえ吾知らず、平生《ふだん》の自分に戻ってしまった。
「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」
津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。それでも女二人は滑稽本《こっけいぼん》の場合のように口を利《き》き合わなかった。ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。だから津田がそれを読み了《おわ》って、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもう呑《の》み込めていた。それでもお秀はわざと訊《き》いた。
「何と書いてありますか、兄さん」
気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。
「あたしの云った通りでしょう」
手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。それでなくっても先刻《さっき》からの行《いき》がかり上《じょう》、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹《ごうはら》であった。
百五
お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の中《うち》で再度の衝突を惧《おそ》れた。と共に、夫の本意をも疑った。彼女の見た平生の夫には自制の念がどこへでもついて廻った。自制ばかりではなかった。腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それにいつでも付け加わっていた。彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。それはいまだに彼女にとっての未知数であるにもかかわらず、そこさえ明暸《めいりょう》に抑《おさ》えれば、苦《く》もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。しかし外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれほどむずかしい事ではなかった。彼は容易に怒《おこ》らない人であった。英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂しかかるのだろう。もっと、厳密に云えば、彼女が室《へや》に入って来る前に、どうしてあれほど露骨に破裂したのだろう。とにかく彼女は退《ひ》きかけた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。彼女は喧嘩《けんか》の相手を自分に引き受けようとした。
「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信《たより》があったんですか」
「いいえ母から」
「そう、やっぱりこの事について」
「ええ」
お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。
「京都でもいろいろお物費《ものいり》が多いでしょうからね。それに元々こちらが悪いんですから」
お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。
「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの工面《くめん》はどうにでもできるぐらいに考えて」
お延は微笑した。
「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」
こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼はいつも繰り返す通りの事を云った。
「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根を繕《つく》ろったの、家賃が滞《とどこお》ったのって、そんな費用は元来|些細《ささい》なものじゃないか」
「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の家《うち》を一軒持って見ると」
「我々だって一軒持ってるじゃないか」
お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の愛嬌《あいきょう》を惜まずに答えた。
「兄さんはその底に何か魂胆《こんたん》があるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」
「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」
「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」
「ほかに?」
お延は意外な顔をした。
「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」
お延は再び夫の方に向った。
「あなた、そりゃまたどういう訳なの」
「お秀がそう云うんだから、お秀に訊《き》いて御覧よ」
お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。
「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」
「だって――」
お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。お秀はすぐその虚《きょ》を充《み》たした。
「それで先刻《さっき》から大変|御機嫌《ごきげん》が悪いのよ。もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩《けんか》になるんですけれどもね。ことにこの事件このかた」
「困るのね」とお延は溜息交《ためいきまじ》りに答えた後で、また津田に訊きかけた。
「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって真逆《まさか》そんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」
「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」
「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」
「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」
「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」
「知らないよ」
津田は蒼蠅《うるさ》そうにこう云った。お延は取りつく島もないといった風にお秀を見た。どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼と眉《まゆ》の間に現われた。
百六
「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂《あによめ》に対して何とか説明しなければならない位地《いち》に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎《にく》んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々《そらぞら》しいまたずうずうしい女はなかった。
「ええ良人《うち》は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」
「いったい何が強情なんだ」
「そりゃあたしにもよく解《わか》らないけれども」
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目《ききめ》がなければ仕方がありませんからね」
「じゃどこが強情なんだ」
「どこがってお聴《き》きになっても駄目《だめ》よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」
「馬鹿」
馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直《すなお》にお取りにならないんです」
「素直にも義剛《ぎごわ》にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」
「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」
「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭《いや》ですもの」
「じゃどうすればいいんだ」
「解《わか》ってるじゃありませんか」
三人はしばらく黙っていた。
突然津田が云い出した。
「お延お前お秀に詫《あや》まったらどうだ」
お延は呆《あき》れたように夫を見た。
「なんで」
「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡《りょうけん》では」
「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後《あと》を遮《さえぎ》った。
「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ嫂《ねえ》さんに詫まって貰《もら》いたいと云いました。そんな言がかりを捏造《ねつぞう》されては、あた
前へ
次へ
全75ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング