がいい」
「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗《のぞ》き込むようにして見た。それから好い恰好《かっこう》をした鼻柱に冷笑の皺《しわ》を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息《ひといき》で懺悔《ざんげ》の深谷《しんこく》へ真《ま》ッ逆《さか》さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後《うしろ》に平坦《へいたん》な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖《こわ》がるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」
「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」
「まあその見当《けんとう》だろうね」
お秀は赫《かっ》とした。同時に一筋の稲妻《いなずま》が彼女の頭の中を走った。
百二
「解《わか》りました」
お秀は鋭どい声でこう云《い》い放《はな》った。しかし彼女の改まった切口上《きりこうじょう》は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦《ちょうせん》に応ずる気色《けしき》を見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」
お秀は津田の肩を揺《ゆす》ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。
「何が」
「なぜ嫂《ねえ》さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」
津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独《ひと》りで解ったと思っているがいい」
「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚《みな》していらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」
津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似《まね》は夢にも思いつけなかった。そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑《けいべつ》が、微温《なまぬる》い表現を通して伝わるだけであった。彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻《さっき》から見せている津田を毫《ごう》も容赦しなかった。そうしてまた「兄さん」と云い出した。
その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に鋒先《ほこさき》をお延に向けていた。兄を攻撃するのも嘘《うそ》ではなかったが、矢面《やおもて》に立つ彼をよそにしても、背後に控えている嫂《あね》だけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうした疑《うたがい》を妹が少しでももっているなら、綺麗《きれい》にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」
「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
津田の癇癪《かんしゃく》は始めて破裂した。
「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕《つら》まえられると思うのか。馬鹿め」
「そう私を軽蔑《けいべつ》なさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」
「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは嫂《ねえ》さんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」
「妹より妻《さい》を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」
「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを怖《こわ》がるのです。しかもその怖がるのは――」
お秀がこう云いかけた時、病室の襖《ふすま》がすうと開《あ》いた。そうして蒼白《あおしろ》い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。
百三
彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜《べんぎ》を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉《ドアー》を開けて内へ入る事ができたのである。
実際彼女は三四日《さんよっか》前に来た時のように、編上《あみあげ》だの畳《たたみ》つきだのという雑然たる穿物《はきもの》を、一足も沓脱《くつぬぎ》の上に見出《みいだ》さなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲《あたり》は寂寞《ひっそり》していた。
彼女はその森《しん》とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃《そろ》えられたただ一足の女下駄を認めた。価段《ねだん》から云っても看護婦などの穿《は》きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍《おど》らせた。下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。
右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何《すいか》でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊《き》いた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段《はしごだん》の下まで来た。そうして上を見上げた。
上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀《よど》みなく往ったり来たり流れているのとはだいぶ趣《おもむき》を異《こと》にしていた。そこには強い感情があった。亢奮《こうふん》があった。しかもそれを抑《おさ》えつけようとする努力の痕《あと》がありありと聞こえた。他聞《たぶん》を憚《はば》かるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。
津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上《あが》ってすぐ取《とっ》つきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延の聴《き》こうとする談話は、聴くに都合の好くない見当《けんとう》、すなわち彼女の後《うしろ》の方から洩《も》れて来るのであった。
彼女はそっと階子段を上《のぼ》った。柔婉《しなやか》な体格《からだ》をもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効《せいこう》をもって酬《むく》いられた。
上《あが》り口《ぐち》の一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄《てすり》が拵《こしら》えてあった。お延はそれに倚《よ》って、津田の様子を窺《うかが》った。するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入《い》った。ことに嫂《ねえ》さんがという特殊な言葉が際立《きわだ》って鼓膜《こまく》に響いた。みごとに予期の外《はず》れた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張が弛《ゆる》む暇《いとま》なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛《な》げつけられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。
二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩《けんか》をしていた。その喧嘩の渦中《かちゅう》には、知らない間《ま》に、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩の主《おも》な原因かも分らなかった。
しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は霰《あられ》のように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味《ぎんみ》している閑《ひま》などはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立《たたず》んでいる彼女の耳朶《みみたぶ》を叩《たた》きに来るだけであった。
彼女は事件が分明《ぶんみょう》になるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震《ふる》わせた。際立《きわだ》って明暸《めいりょう》に聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻《さっき》から一言葉《ひとことば》ごとに一調子《ひとちょうし》ずつ高まって来た二人の遣取《やりとり》は、ここで絶頂に達したものと見傚《みな》すよりほかに途《みち》はなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もし強《し》いて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁《ふていさい》を防ぐ緩和剤《かんわざい》として、どうしても病室へ入らなければならなかった。
彼女は兄妹《きょうだい》の中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。そこへ顔を出すには、出すだけの手際《てぎわ》が要《い》った。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。彼女は際《きわ》どい刹那《せつな》に覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室の襖《ふすま》を開けた。
百四
二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止《と》められた時の沈黙は、けっして平和の象徴《シン
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