んなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」
 津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を気取《けど》られないためであった。眼の色を彼女に読まれないためであった。そうして現にその不自然な所作《しょさ》から来る影響を受けていた。彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。
「別に心配もしていないがね」
「ただ気になるの」
 この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑《ひや》かされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。
 同時に先刻《さっき》から催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念《けねん》に制せられた。
 そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん緒口《いとくち》を失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。
「兄さんはいったい嫂《ねえ》さんをどんな人だと思っていらっしゃるの」
「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」
「そんならいいわ、伺わないでも」
「しかしなぜ訊《き》くんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」
「ちょっと必要があったから伺ったんです」
「だからその必要をお云いな」
「必要は兄さんのためよ」
 津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。
「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」

「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」
「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」
「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」
「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」
 津田は答えなかった。お秀は穴の開《あ》くようにその顔を見た。
「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」
 津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。
「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ聴《き》かないでも解ってるよ」
「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」
 お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の拍子《ひょうし》を抜く必要があったので、彼は判然《はっきり》した返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。
「大変な権幕《けんまく》だね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」
「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」
「云えばどうするというんだい」
「私はあなたの妹です」
「それがどうしたというのかね」
「兄さんは淡泊《たんぱく》でないから駄目よ」
 津田は不思議そうに首を傾けた。
「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違《かんちがい》をしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴《あいつ》は僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」
「ただそれだけなの」
「うんそれだけだ」
 お秀は急に的《あて》の外《はず》れたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。
「だけど兄さん、もし堀のいない留守《るす》に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」
「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
「ええ断言します」
「結構だよ。――それで?」
「あたしの方もそれだけよ」
 二人は黙らなければならなかった。

        百

 しかし二人はもう因果《いんが》づけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸から敲《たた》き出さなければ承知ができなかった。ことに津田には目前の必要があった。当座に逼《せま》る金の工面《くめん》、彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥《おちい》っていた。彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。
「お秀病院で飯を食って行かないか」
 時間がちょうどこんな愛嬌《あいきょう》をいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。
「どうせ家《うち》へ帰ったって用はないんだろう」
 お秀は津田のいう通りにした。話は容易《たやす》く二人の間に復活する事ができた。しかしそれは単に兄妹《きょうだい》らしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹の足《たし》にならなかった。彼らはもっと相手の胸の中へ潜《もぐ》り込《こ》もうとして機会を待った。
「兄さん、あたしここに持っていますよ」
「何を」
「兄さんの入用《いりよう》のものを」
「そうかい」
 津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金を餌《えば》にして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄を焦《じ》らす事に帰着した。
「あげましょうか」
「ふん」
「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
「ことによると、くれないかも知れないね」
「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
「そりゃ知ってるよ。先刻《さっき》もうお前から聞いたじゃないか」
「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
「僕を焦《じ》らすためにかい、または僕にくれるためにかい」
 お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい溜《た》めた。津田にはそれが口惜涙《くやしなみだ》としか思えなかった。
「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」
「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
 今度は呆《あき》れた表情がお秀の顔にあらわれた。
「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」
「そんな事は他《ひと》に訊《き》かなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」
「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
 津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の機嫌《きげん》を取り返した方が得《とく》か、またはくしゃりと一度に押し潰《つぶ》した方が得かという利害心が働らいていた。その中間を行こうと決心した彼は徐《おもむ》ろに口を開いた。
「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」
「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」
「だからそれでいいよ」
「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」
「そりゃ……」
 津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少し間《ま》をおいた。それからすぐ押し返した。
「兄さんのお腹《なか》の中には、あたしが京都へ告口《つげぐち》をしたという事が始終《しじゅう》あるんでしょう」
「そんな事はどうでもいいよ」
「いいえ、それできっとあたしを眼《め》の敵《かたき》にしていらっしゃるんです」
「誰が」
 不幸な言葉は二人の間に伏字《ふせじ》のごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。お秀はそれを松明《たいまつ》のように兄の眼先に振り廻した。
「兄さんこそ違ったのです。嫂《ねえ》さんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」

        百一

 津田から見たお秀は彼に対する僻見《へきけん》で武装されていた。ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。彼には「嫂さん、嫂さん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障《みみざわ》りであった。むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼は尠《すくな》からぬ不快を感じた。
「おれはお前の考えてるような二本棒《にほんぼう》じゃないよ」
「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を装《よそお》って、うっちゃっておおきになるくらいですから」
 こういう言葉が所嫌《ところきら》わずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田はほとんど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。
「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」
 彼は神経の亢奮《こうふん》を紛《まぎ》らす人のように、しきりに短かい口髭《くちひげ》を引張った。しだいしだいに苦《にが》い顔をし始めた。そうしてだんだん言葉少なになった。
 津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸《あかはだか》にされて行くので、しまいに彼は恥《は》じ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、なお猛烈に進んだ。あたかももう一息《ひといき》で彼を全然自分の前に後悔させる事ができでもするような勢《いきおい》で。
「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊《たんぱく》でした。私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体《ありてい》に事実を申します。だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。兄さんは嫂さんをお貰《もら》いになる前、今度《こんだ》のような嘘《うそ》をお父さんに吐《つ》いた覚《おぼえ》がありますか」
 この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。
「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」
 お秀はそうだと答えたいところをわざと外《そら》した。
「いいえ、嫂さんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。ただ兄さんが変った証拠《しょうこ》にそれだけの事実を主張するんです」
 津田は表向どうしても負けなければならない形勢に陥《おちい》って来た。
「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」
「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」
 すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。
 お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。
「兄さんの変った証拠《しょうこ》はまだあるんです」
 津田は素知《そし》らぬ風をした。お秀は遠慮なくその証拠というのを挙《あ》げた。
「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、嫂《ねえ》さんに何か云やしないかって、先刻《さっき》から心配しているじゃありませんか」
「煩《うる》さいな。心配じゃないって先刻説明したじゃないか」
「でも気になる事はたしかなんでしょう」
「どうでも勝手に解釈する
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