《たち》のものであった。心のうちで劈頭《へきとう》に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。
 臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、下《しも》のような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。――最初に体《てい》よく送金を拒絶する。津田が困る。今までの行《いき》がかり上《じょう》堀に訳を話す。京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。それで否応《いやおう》なしに例月分を立て替えてくれる。父はただ礼を云って澄ましている。
 こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な理窟《りくつ》もあった。或程度の手腕は無論認められた。同時に何らの淡泊《たんぱく》さがそこには存在していなかった。下劣とまで行かないでも、狐臭《きつねくさ》い狡獪《こうかい》な所も少しはあった。小額の金に対する度外《どはず》れの執着心が殊更《ことさら》に目立って見えた。要するにすべてが父らしくできていた。
 ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口《やりくち》に感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じように眉《まゆ》を顰《ひそ》めなければならなかった。父の品性。それはむしろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。お秀はまた兄夫婦に対して好い感情をもっていなかった。その上夫や姑《しゅうと》への義理もつらく考えさせられた。二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。互いの忖度《そんたく》から成立った父の料簡《りょうけん》は、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。

        九十七

 感情と理窟の縺《もつ》れ合《あ》った所を解《ほ》ごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈《じれ》ったくした。しかし彼らは兄妹《きょうだい》であった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。相手の淡泊《さっぱり》しないところを暗《あん》に非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁《ふていさい》は演じなかった。ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点に括《くく》る手際《てぎわ》をお秀より余計にもっていた。
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同《おん》なじ事だがね」
「あら、嫂《ねえ》さんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」
「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんな事ができて」
 お秀の兄を冷笑《あざ》けるような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚《よ》び起《おこ》した。
「できなければ死ぬまでの事さ」
 お秀はついにきりりと緊《しま》った口元を少し緩《ゆる》めて、白い歯を微《かす》かに見せた。津田の頭には、電灯の下で光る厚帯を弄《いじ》くっているお延の姿が、再び現れた。
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
 津田にとってそれほど容易《たやす》い解決法はなかった。しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それにできるだけの満足を与える事が、また取《とり》も直《なお》さず彼の虚栄心にほかならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角《いっかく》において突き崩《くず》すのは、自分で自分に打撲傷《だぼくしょう》を与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。そのくらいの事をと他《ひと》から笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余《ありあま》るほどの金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。
 その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。己《おの》れを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質《たち》に父母から生みつけられていた。
「できなければ死ぬまでさ」と放《ほう》り出《だ》すように云った後で、彼はまだお秀の様子を窺《うかが》っていた。腹の中に言葉通りの断乎《だんこ》たる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。彼はむしろ冷やかに胸の天秤《てんびん》を働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量《しょうりょう》した。そうしていっそ二つのうちで後の方を冒《おか》したらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのを慊《あきた》らなく思った。兄の後《うしろ》に御本尊のお延が澄まして控えているのを悪《にく》んだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚《みな》して、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹《ごうはら》であった。そんなこんなの蟠《わだか》まりから、津田の意志が充分見え透《す》いて来た後《あと》でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
 同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充《み》ちていた。彼は成上《なりあが》りものに近いある臭味《しゅうみ》を結婚後のこの妹に見出《みいだ》した。あるいは見出したと思った。いつか兄という厳《いか》めしい具足《ぐそく》を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼といえども妄《みだ》りにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
 二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵《こし》らえかけていた局面を、一度に崩《くず》してしまったのである。

        九十八

 しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は階子段《はしごだん》の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」と訊《き》き返した。薬局生は下《お》りながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。冷笑なこの挨拶《あいさつ》が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着《おうちゃく》にした。芝居へ行ったぎり、昨日《きのう》も今日《きょう》も姿を見せないお延の仕うちを暗《あん》に快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。
「電話で釣るんだ」
 彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日《あした》の朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方に惹《ひ》き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振《そぶり》から推して見ると、この類測に満更《まんざら》な無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛《しとやか》に自分を驚ろかしに這入《はい》って来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。彼女は一刹那《いっせつな》に閃《ひら》めかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。今まで持《も》ち応《こた》えに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。
 彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。放《ほう》っておけ」
 この挨拶《あいさつ》がまたお秀にはまるで意外であった。第一はズボラを忌《い》む兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前を憚《はば》かって、不断の甘いところを押し隠すために、わざと嫂《あによめ》に対して無頓着《むとんじゃく》を粧《よそお》うのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。
 形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口《いとくち》を取り上げた時、一方では急込《せきこ》んだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話を棄《す》てて電車に乗ったのである。それから十五分と経《た》たないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
 お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅《るすたく》に押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。それは外套《がいとう》をやるやらないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他《ひと》の外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。そこには突飛《とっぴ》があった。自暴《やけ》があった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択《せんたく》される恐れがあった。平生から彼を軽蔑《けいべつ》する事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地《したじ》を作っておいた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」
 津田の心には突然一種の恐怖が湧《わ》いた。お秀はまた反対に笑い出した。いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」
 お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の叔父《おじ》の前で出す一面だけに限られていた。そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。
「そうでないよ、なかなか」
「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
 お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
「だって燐寸《マッチ》一本だって、大きな家《うち》を焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」
「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱|燐寸《マッチ》を抱え込んでいたって。嫂《ねえ》さんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」

        九十九

 津田はお秀の口から出た下半句《しもはんく》を聞いた時、わざと眼を動かさなかった。よそを向いたまま、じっとその後《あと》を待っていた。しかし彼の聞こうとするその後《あと》はついに出て来なかった。お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。
「何だって兄さんはまた今日に限って、そ
前へ 次へ
全75ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング