「だからあたしの方じゃ先刻《さっき》から用は今度《こんだ》の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」
「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」
「だって、兄さんがそんな厭《いや》な顔をなさるんですもの」
お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈《えしゃく》を加える女ではなかった。したがって津田も気の毒になるはずがなかった。かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。彼は取り合わずに先へ通《とお》り過《こ》した。
「また京都から何か云って来たのかい」
「ええまあそんなところよ」
津田の所へは父の方から、お秀の許《もと》へは母の側《がわ》から、京都の消息が重《おも》に伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無《うむ》を心のうちで気遣《きづか》っていたのである。兄妹《きょうだい》の間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、月末《つきずえ》の仕払や病院の入費の出所《でどころ》に多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互に困絡《こんがら》かって、離す事のできない事情の下《もと》にある意味合《いみあい》を、お秀よりもよく承知していた。彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。
「何と云って来たい」
「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」
「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」
お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただ微《かす》かに薄笑の影を締《しま》りの好い口元に寄せて見せた。それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田には癪《しゃく》だった。平生は単に妹であるという因縁《いんねん》ずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟《しげき》した。なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計|他《ひと》の感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。「お前は器量望みで貰われたのを、生涯《しょうがい》自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。
お秀はやがてきちりと整った眼鼻を揃《そろ》えて兄に向った。
「それで兄さんはどうなすったの」
「どうもしようがないじゃないか」
「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」
津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。
「云ってやったさ」
「そうしたら」
「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっとも家《うち》へはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」
「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当《けんとう》がついて」
津田は何とも答えなかった。お延の拵《こし》らえてくれた※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《どてら》の襟《えり》を手探《てさぐ》りに探って、黒八丈《くろはちじょう》の下から抜き取った小楊枝《こようじ》で、しきりに前歯をほじくり始めた。彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。
「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」
「知らないよ」
津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。
「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻《さっき》から訊《き》いてるじゃないか」
お秀はわざと眼を反《そ》らして縁側《えんがわ》の方を見た。それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作《しょさ》の代りに過ぎなかった。
「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」
九十五
津田はようやくお秀|宛《あて》で来た手紙の中に、どんな事柄《ことがら》が書いてあるかを聞いた。妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。月末の不足を自分で才覚《さいかく》するなら格別、もしそれさえできないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根の繕《つくろ》いだとか家賃の滞《とどこお》りだとかいうのは嘘《うそ》でなければならなかった。よし嘘でないにしたところで、単に口先の云い前と思わなければならなかった。父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。叱るならもっと男らしく叱ったらよさそうなものだのに。
彼は沈吟《ちんぎん》して考えた。山羊髯《やぎひげ》を生《は》やして、万事にもったいをつけたがる父の顔、意味もないのに束髪《そくはつ》を嫌《きら》って髷《まげ》にばかり結《ゆ》いたがる母の頭、そのくらいの特色はこの場合を解釈する何の手がかりにもならなかった。
「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女のよって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場を他《ひと》からも認めて貰いたかったのである。
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」
お秀には自分の良人《おっと》の堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。
「良人《うち》でも困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」
学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を翻《ひる》がえさせたものは堀の力であった。津田から頼まれて、また無雑作《むぞうさ》にそれを引き受けた堀は、物価の騰貴《とうき》、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説《くど》き落《おと》したのである。その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分を割《さ》いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。その案の成立と共に責任のできた彼はまた至極《しごく》呑気《のんき》な男であった。約束の履行《りこう》などという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行《すいこう》の時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。詰責《きっせき》に近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。しかし現金の綺麗《きれい》に消費されてしまった後で、気がついたところで、どうする訳にも行かなかった。楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。津田の父はいつまで経っても彼を責任者扱いにした。
同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。彼女はお延の指輪を賞《ほ》めた。賞めたついでにそれを買った時と所とを突きとめようとした。堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。自分がどのくらい津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、すべての顧慮《こりょ》に打ち勝った。彼女はありのままをお秀に物語った。
不断から派手過《はです》ぎる女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末《てんまつ》を京都へ報告した。しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫を唆《そそ》のかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭からきめてかかったのである。そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。今でも彼女はその誤解から逃《のが》れる事ができなかった。したがってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりもむしろ嫂《あによめ》のお延だと云った方が適切かも知れなかった。
「いったい嫂《ねえ》さんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事について」
「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」
「そう。じゃ嫂《ねえ》さんが一番気楽でいいわね」
お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、鮮《あざや》かに見えた。
九十六
「いったいどうしたらいいんでしょう」
お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を洩《も》らす表現にもなった。彼女には夫の手前というものがあった。夫よりもなお遠慮勝な姑《しゅうと》さえその奥には控えていた。
「そりゃ良人《うち》だって兄さんに頼まれて、口は利《き》いたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人《うち》へ対して困るだけだわ」
津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡《りょうけん》がどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。彼女は自分の前に甚《はなは》だ横着な兄を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。むしろ自由にされていた。細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。
兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。
津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面《くめん》するに違ないとでも思っているのか知ら」
「そこなのよ、兄さん」
お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。
「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」
微《かす》かな暗示が津田の頭に閃《ひら》めいた。秋口《あきぐち》に見る稲妻《いなずま》のように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。それは父の品性に関係していた。今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質
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