った。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。兄がもしあれほど派手好《はでず》きな女と結婚しなかったならばという気が、始終《しじゅう》胸の底にあった。そうしてそれは身贔負《みびいき》に過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。
お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦から煙《けむ》たがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。第一には二人が厭《いや》がるからなお改めないのであった。自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。第三は単に派手好なお延が嫌《きらい》だという一点に纏《まと》められてしまわなければならなかった。お延より余裕のある、またお延より贅沢《ぜいたく》のできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。それはお秀にとって何の問題にもならなかった。ただしお秀には姑《しゅうと》があった。そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。しかしお秀はこの問題に関聯《かんれん》してこの相違すら考えなかった。
お秀がお延から津田の消息を電話で訊《き》かされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套《がいとう》を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。
九十二
前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳《ぜん》にちょっと手を出したぎり、また仰向《あおむけ》になって、昨夕《ゆうべ》の不足を取り返すために、重たい眼を閉《つぶ》っていた。お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態に入《い》りかけた間際《まぎわ》だったので、彼は襖《ふすま》の音ですぐ眼を覚《さ》ました。そうして病人に斟酌《しんしゃく》を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
こういう場合に彼らはけっして愛嬌《あいきょう》を売り合わなかった。嬉《うれ》しそうな表情も見せ合わなかった。彼らからいうと、それはむしろ陳腐過《ちんぷす》ぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼らには自分ら兄妹《きょうだい》でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用し悪《にく》い黙契があった。どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部《うわべ》の所作《しょさ》だけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手に騙《だま》し合う手数《てかず》を省《はぶ》いて、良心に背《そむ》かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。そうしてその良心に背かない顔というのは、取《とり》も直《なお》さず、愛嬌《あいきょう》のない顔という事に過ぎなかった。
第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄《あいだがら》であった。だから遠慮の要《い》らないという意味で、不愛嬌《ぶあいきょう》な挨拶《あいさつ》が苦にならなかった。第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。それが災《わざわい》の元で、互の顔を見ると、互に弾《はじ》き合《あ》いたくなった。
ふと首を上げてそこにお秀を見出《みいだ》した津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精《ぶしょう》と不関心があった。彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着《とんじゃく》なく、言葉もかけずに、そっと室《へや》の内に入って来た。
彼女は何より先にまず、枕元にある膳《ぜん》を眺めた。膳の上は汚ならしかった。横倒しに引《ひ》ッ繰《く》り返《かえ》された牛乳の罎《びん》の下に、鶏卵《たまご》の殻《から》が一つ、その重みで押し潰《つぶ》されている傍《そば》に、歯痕《はがた》のついた焼麺麭《トースト》が食欠《くいかけ》のまま投げ出されてあった。しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗《きれい》に皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
お秀は眉《まゆ》をひそめて、膳を階子段《はしごだん》の上《あが》り口《くち》まで運び出した。看護婦の手が隙《す》かなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食《あさめし》の残骸《なきがら》は、掃除の行き届いた自分の家《うち》を今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。
「汚ならしい事」
彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでもいいって云ったのに」
今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐ来《き》ようと思ったんですけれども、あいにく昨日《きのう》は少し差支《さしつか》えがあって――」
お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の間柄《あいだがら》を考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟《りくつ》の徹《とお》らない頭をもった津田では無論なかった。それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、暗《あん》に希望していたくらいであった。けれども自分がお秀にそうした素振《そぶり》を見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振《そぶり》を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
津田は後を訊《き》かずに思う通りを云った。
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だって嫂《ねえ》さんが、もし閑《ひま》があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。
九十三
手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ創口《きずぐち》の周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈搏《みゃくはく》のように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。
彼は一昨日《おととい》の午後始めて第一の収縮を感じた。芝居へ行く許諾《きょだく》を彼から得たお延が、階子段《はしごだん》を下へ降りて行った拍子《ひょうし》に起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心の中《うち》で叫んだ。すると苦《にが》い記憶をわざと彼のために繰《く》り返《かえ》してみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。最初に肉が縮《ちぢ》む、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉を擦《こ》すられた気持がする、次にそれがだんだん緩和《かんわ》されて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端《とたん》に一度引いた浪《なみ》がまた磯《いそ》へ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶり返《かえ》してくる。すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。止《や》めさせようと焦慮《あせ》れば焦慮るほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。――これが過程であった。
津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼は籠《かご》の中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。いつまでも彼女を自分の傍《そば》に引きつけておくのを男らしくないと考えた。それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。彼女が玄関の扉を開ける時、烈《はげ》しく鳴らした号鈴《ベル》の音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。彼が局部から受ける厭《いや》な筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。彼はそれを一種の刺戟《しげき》に帰した。そうしてその刺戟は過敏にされた神経のお蔭《かげ》にほかならないと考えた。ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。お延の所作《しょさ》に対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。しかし全く偶然の暗合《あんごう》でない事も、彼に云わせると、自明の理であった。彼は自分だけの料簡《りょうけん》で、二つの間にある関係を拵《こしら》えた。同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。
お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末《てんまつ》を思い起させた。彼は苦《にが》い顔をした。
何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
「お厭《いや》なら病院をお出《で》になってから後にしましょうか」
別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌《しんしゃく》しなければならなかった。
「どこか痛いの」
津田はただ首肯《うなず》いて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。
「そんなに痛くっちゃ困るのね。嫂《ねえ》さんはどうしたんでしょう。昨日《きのう》の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」
「お延は知らないんだ」
「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」
「なに本当はお延のお蔭《かげ》で痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々《だだ》っ子《こ》らしく見えて来た。上部《うわべ》はとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのが恥《は》ずかしくなった。
「いったいお前の用というのは何だい」
「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」
津田は優《ゆう》に自分を偽《いつわ》る事ができた。しかしその時の彼は偽るのが厭《いや》であった。彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。
「構わないからお話しよ」
「どうせあたしの話だから碌《ろく》な事じゃないのよ。よくって」
津田にも大よその見当《けんとう》はついていた。
九十四
「またあの事だろう」
津田はしばらく間《ま》をおいて、仕方なしにこう云った。しかしその時の彼はもう例《いつも》の通り聴《き》きたくもないという顔つきに返っていた。お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。
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