の見本には、真赤《まっか》に咲いた日比谷公園の躑躅《つつじ》だの、突当りに霞《かすみ》が関《せき》の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去の匂《におい》のように、聯想《れんそう》としてつき纏《まつ》わっていた。お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。
机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机を棄《す》てたお延は、すぐ本箱の方に向った。しかしそれを開けようとして、手を環《かん》にかけた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。手応《てごた》えのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらに攪《か》き廻《まわ》した。それを一々読んで見るのは大変であった。読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底に潜《ひそ》んでいようとは想像できなかった。彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。錠《じょう》を卸《おろ》さない秘密をそこいらへ放《ほう》り出《だ》しておくには、あまりに細《こま》か過《す》ぎるのが彼の持前であった。
お延は戸棚《とだな》を開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。けれども中には何にもなかった。上には殺風景な我楽多《がらくた》が、無器用に積み重ねられているだけであった。下は長持でいっぱいになっていた。
再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差《じょうさし》の中から、津田|宛《あて》で来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意を誘《いざな》いつつ、いつまでもそこに残っていたのである。彼女はつい念のためという口実の下《もと》に、それへ手を出さなければならなくなった。
封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置に復《もど》した。
突然疑惑の焔《ほのお》が彼女の胸に燃え上った。一束《ひとたば》の古手紙へ油を濺《そそ》いで、それを綺麗《きれい》に庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。その時めらめらと火に化して舞い上る紙片《かみきれ》を、津田は恐ろしそうに、竹の棒で抑《おさ》えつけていた。それは初秋《はつあき》の冷たい風が肌《はだえ》を吹き出した頃の出来事であった。そうしてある日曜の朝であった。二人差向いで食事を済ましてから、五分と経《た》たないうちに起った光景であった。箸《はし》を置くと、すぐ二階から細い紐《ひも》で絡《から》げた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火を点《つ》けていた。お延が縁側《えんがわ》へ出た時には、厚い上包がすでに焦《こ》げて、中にある手紙が少しばかり見えていた。お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかと訊《き》いた。津田は嵩《かさ》ばって始末に困るからだと答えた。なぜ反故《ほご》にして、自分達の髪を結《ゆ》う時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも云わなかった。ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突ッついた。突ッつくたびに、火になり切れない濃い煙が渦《うず》を巻いて棒の先に起った。渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。津田は煙に咽《むせ》ぶ顔をお延から背《そむ》けた。……
お時が午飯《ひるめし》の催促に上《あが》って来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。
九十
時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕で独《ひと》り膳《ぜん》に向った。それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。彼女の様子は剛張《こわば》っていた。そのくせ心は纏《まと》まりなく動いていた。先刻《さっき》出かけようとして着換えた着物まで、平生《ふだん》と違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介《なかだち》となった。
もし今の自分に触れる問題が、お時の口から洩《も》れなかったなら、お延はついに一言《ひとこと》も云わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。その食事さえ、実を云うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのが厭《いや》さに、ほんの形式的に片づけようとして、膳に着いただけであった。
お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳で箸《はし》を置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」と訊《き》いた。そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
「どうもすみませんでした」
彼女は自分の専断で病院へ行った詫《わび》を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
お延は疑《うたぐ》りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ云った。
「あのお客さまは、ずいぶん――」
しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが緒口《いとくち》で先へ進んだ。
「旦那様《だんなさま》は驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴《やつ》だって。こっちから取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判《じきだんぱん》を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」
お延は軽蔑《さげす》んだ笑いを微《かす》かに洩《も》らした。しかし自分の批評は加えなかった。
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」
「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊《おき》きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変|厭《いや》な顔をなさいました」
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換《めしかえ》をしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、冷評《ひや》かされました」
お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他《ひと》の家《うち》へお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな嘘《うそ》だと思っていれば間違はないんだからって」
「そう」
お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまも傍《そば》で笑っていらっしゃいました」
お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。
九十一
お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び醒《さ》ますには充分であった。彼女の心は四年以来いつでも母であった。母でない日はただの一日もなかった。
彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに可愛《かわい》がりもしない。これが彼のお秀に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。道楽の修業を積んで始めてそういう境界《きょうがい》に達せられるもののように考えていた。人世観という厳《いか》めしい名をつけて然《しか》るべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温《なまぬる》く触れて行く事であった。微笑して過ぎる事であった。何《なん》にも執着しない事であった。呑気《のんき》に、ずぼらに、淡泊《たんぱく》に、鷹揚《おうよう》に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。それが彼のいわゆる通《つう》であった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。またどこへ行っても不足を感じなかった。この好成蹟《こうせいせき》がますます彼を楽天的にした。誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。
器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。放蕩《ほうとう》の酒で臓腑《ぞうふ》を洗濯されたような彼の趣《おもむき》もようやく解する事ができた。こんなに拘泥《こうでい》の少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目《まじめ》に云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。お延ほど根強くない彼女は、その意味を覚《さと》る前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注《そそ》がなければならなくなった。
お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。お延の新世帯《しんしょたい》が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。弟も妹も同居していた。親類の厄介者までいた。自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。中でも母には、他《ひと》の知らない気苦労をしなければならなかった。
器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで経《た》っても若かった。一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。四歳《よっつ》の子持とはどうしても考えられないくらいであった。けれどもお延と違った家庭の事情の下《もと》に、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得をもっていた。お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりも老《ふ》けていた。言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染《しょたいじ》みたのである。
こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母《ちちはは》の味方にしたがった。彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。ことに嫂《あによめ》に気下味《きまず》い事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生から慎《つつ》しんでいた。しかし腹の中はむしろ反対であ
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