いただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」
 小林の筋の運び方は、少し困絡《こんがら》かり過ぎていた。お延は彼の論理《ロジック》の間隙《すき》を突くだけに頭が錬《ね》れていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点を掴《つか》むだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口に纏《まと》めて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負《お》わないというんでしょう」
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚《おぼえ》があるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
 小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
 小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草《たばこ》を吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高を括《くく》ったように落ちついている小林の態度がまた癪《しゃく》に障《さわ》った。そこへ先刻《さっき》から心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延の蟠《わだか》まりは、一定した様式の下《もと》に表現される機会の来ない先にまた崩《くず》されてしまわなければならなかった。

        八十七

 お時は縁側《えんがわ》へ坐って外部《そと》から障子《しょうじ》を開けた。
「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
 お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話はかけなかったのかい」
「いいえかけたんでございます」
「かけても通じなかったのかい」
 問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に呑《の》み込めるようになって来た。――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。書生だか薬局員だかが始終《しじゅう》相手になって、何か云うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。第一言語が不明暸《ふめいりょう》であった。それから判切《はっきり》聞こえるところも辻褄《つじつま》の合わない事だらけだった。要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとう諦《あき》らめて、電話箱を出てしまった。しかし義務を果さないでそのまま宅《うち》へ帰るのが厭《いや》だったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。
「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」
 お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざん厭《いや》な思いをさせられたのだと思うと、気を利《き》かした下女がかえって恨《うら》めしくもあった。
 彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこに据《す》えられた銅《あか》の金具の光る重《かさ》ね箪笥《だんす》の一番下の抽斗《ひきだし》を開けた。そうして底の方から問題の外套《がいとう》を取り出して来て、それを小林の前へ置いた。
「これでしょう」
「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを引《ひ》ッ繰返《くりかえ》した。
「思ったよりだいぶ汚《よご》れていますね」
「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。襟《えり》を返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それが著《いち》じるしく目立った。
「どうせただ貰うんだからそう贅沢《ぜいたく》も云えませんかね」
「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
「置いて行けとおっしゃるんですか」
「ええ」
 小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
 お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな袖《そで》へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」
 小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい畳《たた》み皺《じわ》が幾筋もお延の眼に入《い》った。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆《ぎゃく》に行《い》った。
「ちょうど好いようですね」
 彼女は誰も自分の傍《そば》にいないので、せっかく出来上った滑稽《こっけい》な後姿《うしろすがた》も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
 すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐《あぐら》をかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
 お延は急に口元を締《し》めた。
「奥さんのような窮《こま》った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」
 小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。
「ありがとう。御蔭《おかげ》でこの冬も生きていられます」
 彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から縁側《えんがわ》へ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて他《ひと》に笑われないようにしないといけませんよ」

        八十八

 二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端《とたん》、小林が後《うしろ》を向いた拍子《ひょうし》、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。
 その時小林の太い眉《まゆ》が一層|際立《きわだ》ってお延の視覚を侵《おか》した。下にある黒瞳《くろめ》はじっと彼女の上に据《す》えられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受ける覚《おぼえ》がないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたは固《もと》より立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」
「もうたくさんです。早く帰って下さい」
 小林は応じなかった。問答が咫尺《しせき》の間に起った。
「しかし僕のいうのは津田君の事です」
「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」
「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」
「聞きたいですか」
 鋭どい稲妻《いなずま》がお延の細い眼からまともに迸《ほとば》しった。
「津田はわたくしの夫です」
「そうです。だから聞きたいでしょう」
 お延は歯を噛《か》んだ。
「早く帰って下さい」
「ええ帰ります。今帰るところです」
 小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側《えんがわ》を二足ばかりお延から遠ざかった。その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。
「お待ちなさい」
「何ですか」
 小林はのっそり立ちどまった。そうして裄《ゆき》の長過ぎる古外套《ふるがいとう》を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。
「なぜ黙って帰るんです」
「御礼は先刻《さっき》云ったつもりですがね」
「外套の事じゃありません」
 小林はわざと空々《そらぞら》しい様子をした。はてなと考える態度まで粧《よそお》って見せた。お延は詰責《きっせき》した。
「あなたは私の前で説明する義務があります」
「何をですか」
「津田の事をです。津田は私の夫です。妻《さい》の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗《きれい》に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」
「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に恥《はじ》を恥と思わない男として、いったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたに詫《あや》まりましょう。そうしたらいいでしょう」
 お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」
 お延は依然として下を向いたまま口を利《き》かなかった。小林は語を続けた。
「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もその後《あと》を話す事を遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。併《あわ》せて取消します。その他もし奥さんの気に障《さわ》った事があったら、総《すべ》て取消します。みんな僕の失言です」
 小林はこう云った後で、沓脱《くつぬぎ》に揃《そろ》えてある自分の靴を穿《は》いた。そうして格子《こうし》を開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と云った。
 微《かす》かに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。それから急に二階の梯子段《はしごだん》を駈《か》け上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。

        八十九

 幸いにお時が下から上《あが》って来なかったので、お延は憚《はばか》りなく当座の目的を達する事ができた。彼女は他《ひと》に顔を見られずに思う存分泣けた。彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。
 濡《ぬ》れた手巾《ハンケチ》を袂《たもと》へ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗《ひきだし》を開けた。抽斗は二つ付いていた。しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。それもそのはずであった。彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用《いりよう》の手荷物を纏《まと》めるため、二三日前《にさんちまえ》すでにそこを捜《さが》したのである。彼女は残された封筒だの、物指《ものさし》だの、会費の受取だのを見て、それをまた一々|鄭寧《ていねい》に揃《そろ》えた。パナマや麦藁製《むぎわらせい》のいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏《しょか》の夕暮を思い出させた。その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこ
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