「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
 話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に溯《さかのぼ》って行った。

        八十四

 自分のまだ知らない夫の領分に這入《はい》り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心《かんじん》のところはわざと略してしまった。例《たと》えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深《よふか》しをしていたかの点になると、彼は故意に暈《ぼか》しさって、全く語らないという風を示した。それを訊《き》けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥《じら》しているのではなかろうかという気さえ起した。
 お延は平生から小林を軽く見ていた。半《なか》ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑《ぶべつ》の裏には、まだ他《ひと》に向って公言しない大きな因子《ファクトー》があった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。売れもしない雑誌の編輯《へんしゅう》、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。彼女の見た小林は、常に無籍《むせき》もののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴《ぐち》を零《こぼ》して、厭《いや》がらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。
 しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物《つきもの》であった。ことにそういう階級に馴《な》らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。しかし岡本の宅《うち》へ出入《ではい》りをするそれらの人々は、みんなその分を弁《わきま》えていた。身分には段等《だんとう》があるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体《あくたい》を吐《つ》くものにはけっして会った事がなかった。
 お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る擦《す》れッ枯《か》らしじゃなかろうか」
 軽蔑《けいべつ》の裏に潜《ひそ》んでいる不気味な方面が強く頭を持上《もちや》げた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠《しょうこ》にか、またはそれに全くの無頓着《むとんじゃく》でか、アははと笑い出した。
「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度《いちど》きに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」
「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を揉《も》ませて、歇斯的里《ヒステリ》でも起されると、後《あと》でまた僕の責任だなんて、津田君に恨《うら》まれるだけだから」
 お延は後《うしろ》を向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当《けんとう》に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。疾《と》うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。
「どうしたんでしょう」
「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児《まいご》になる気遣《きづかい》はないから大丈夫です」
 小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を淹《い》れ代《か》えるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえ遮《さえ》ぎった。
「奥さん、時間があるなら、退屈凌《たいくつしの》ぎに幾らでも先刻《さっき》の続きを話しますよ。しゃべって潰《つぶ》すのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰《ごくつぶ》しにゃ、同《おん》なし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」
「あるかも知れませんね」
「ああ見えてなかなか淡泊《たんぱく》でないからね」
 お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯《うけが》わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法《ぶさほう》な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」
「あっても宜《よろ》しいじゃございませんか」
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」

        八十五

 小林の顔には皮肉の渦《うず》が漲《みなぎ》った。進んでも退《しりぞ》いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振《そぶり》さえ示した。
「何という陋劣《ろうれつ》な男だろう」
 お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨《にら》めっ競《くら》をしていた。すると小林の方からまた口を利《き》き出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴《き》かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでも私《わたし》の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」
 お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に軽蔑《けいべつ》されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻《さっき》からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫《ごう》も変らないのです。これだけはいくら怜悧《りこう》な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
 小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体《ありてい》に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」
 小林の眼は据《す》わっていた。お延は何という事もできなかった。
「まあ」
「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
「そんな馬鹿な事があるもんですか」
「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」
「あなたもずいぶん僻《ひが》んでいらっしゃるのね」
「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能《やくざ》に生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰を恨《うら》む訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」
 小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の翼《つばさ》さえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。
「奥さん、僕は人に厭《いや》がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑《けいべつ》されても存分な讐討《かたきうち》ができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」
 お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当《あ》て篏《はま》って、毫《ごう》も悖《もと》らないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。
「吃驚《びっく》りしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」
 小林は多少|溜飲《りゅういん》の下りたような顔をした。
「奥さんは先刻《さっき》から僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴《やつ》だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」
 小林はまた大きな声を出して笑った。

        八十六

 お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目《まじめ》さが疑がわれた。反抗、畏怖《いふ》、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪《けんお》、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯《こうさく》したいろいろなものはけっして一点に纏《まと》まる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいに訊《き》いた。
「じゃあなたは私を厭《いや》がらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」
「いや目的はそうじゃありません。目的は外套《がいとう》を貰いに来たんです」
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし本望《ほんもう》かも知れません」
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
 お延の細い眼から憎悪《ぞうお》の光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性《きしょう》がありありと瞳子《ひとみ》の裏《うち》に宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡《りょうけん》から敵打《かたきうち》をしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になって他《ひと》を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認して
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