た。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵に跟《つ》けられた話をした。それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。おおかた社会主義者として目指《めざ》されているのだろうという説明までして聴かせた。
彼の談話には気の弱い女に衝撃《ショック》を与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々《こわごわ》ながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかに途《みち》がなくなった。彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。それは昨夕《ゆうべ》お延とお時をさんざ笑わせた外套《がいとう》の件にほかならなかった。
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体《からだ》に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。
お延はすぐ入用《いりよう》の品を箪笥《たんす》の底から出してやろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡《ためら》った彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性《きしょう》をよく知っていた。着古した外套《がいとう》一つが本《もと》で、他日細君の手落呼《ておちよば》わりなどをされた日には耐《たま》らないと思った。
「大丈夫ですよ、くれるって云ったに違《ちがい》ないんだから。嘘《うそ》なんか吐《つ》きやしませんよ」
出してやらないと小林を嘘吐《うそつき》としてしまうようなものであった。
「いくら酔払っていたって気は確《たしか》なんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」
お延はとうとう決心した。
「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」
「奥さんは実に几帳面《きちょうめん》ですね」と云って小林は笑った。けれどもお延の暗《あん》に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」
お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
お時が自働電話へ駈《か》けつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋《つな》いだ。ところがその談話は突然な閃《ひら》めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍《おど》らせた。
八十二
「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
お時が出て行くや否や、小林は藪《やぶ》から棒《ぼう》にこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、当《あた》らず障《さわ》らずの返事をしておくに限ると思った。
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
小林の云い方があまり大袈裟《おおげさ》なので、お延はかえって相手を冷評《ひやか》し返してやりたくなった。しかし彼女の気位《きぐらい》がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮《こりょ》する男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛《とっぴ》にここかしこを駈《か》け回《めぐ》る代りに、時としては不作法《ぶさほう》なくらい一直線に進んだ。
「やッぱり細君の力には敵《かな》いませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」
お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当《けんとう》のつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」
「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」
「独《ひと》りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」
「参考になりますよ」
お延は細い眼のうちに、賢《かし》こそうな光りを見せた。
「それよりあなた御自分で奥さんをお貰《もら》いになるのが、一番|捷径《ちかみち》じゃありませんか」
小林は頭を掻《か》く真似《まね》をした。
「貰いたくっても貰えないんです」
「なぜ」
「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くて烈《はげ》しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。
「いくら女が余っていても、これから駈《か》け落《おち》をしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」
駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人《なんにょふたり》の道行《みちゆき》をお延に想《おも》い起させた。そうした濃厚な恋愛を象《かた》どる艶《なま》めかしい歌舞伎姿《かぶきすがた》を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他《ひと》の着古した外套《がいとう》を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。
「駈落《かけおち》をなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」
「誰とです」
「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も伴《つ》れていらっしゃる方はないじゃありませんか」
「へえ」
小林はこう云ったなり畏《かしこ》まった。その態度が全くお延の予期に外《はず》れていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目《まじめ》であった。しばらく間《ま》をおいてから独《ひと》り言《ごと》のような口調で、彼は妙なことを云い出した。
「僕だって朝鮮|三界《さんがい》まで駈落のお供をしてくれるような、実《じつ》のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」
お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどう捌《こ》なしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。
「奥さん、僕にはたった一人の妹《いもと》があるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしても伴《つ》れて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」
お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃《のが》れようと試みた。彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果に陥《おちい》った。
八十三
特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」
小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから訊《き》き返して来た。
「何がです、今僕の云った事がですか」
「いいえ、そんな事じゃないの」
お延は巧みに相手を岐路《わきみち》に誘い込んだ。
「あなた先刻《さっき》おっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」
小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」
「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
「ええ変りましたね」
お延は腑《ふ》に落《お》ちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠《しょうこ》でも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終《しじゅう》薄笑いの影が射していた。けれどもそれは終《つい》に本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯《からか》われる自分じゃないという態度を見せたのである。
「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」
今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気《おぼろげ》ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調《しきちょう》の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部《そと》から覗《のぞ》いてもとうてい判《わか》りこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐《ごうり》の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。
「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」
小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんはなかなか空惚《そらッとぼ》ける事が上手だから、僕なんざあとても敵《かな》わない」
「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう旨《うま》いお手際《てぎわ》をもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」
お延はわざと取り合わなかった。と云って別に煩《うる》さい顔もしなかった。愛嬌《あいきょう》を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
「何を」
藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。誘《おび》き出《だ》されると知りながら、彼女はついこういって訊《き》き返さなければならなかった。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露《ひろう》するらしかった。お延はつんとして答えた。
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」
「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
「ありがとう」
お延はさも軽蔑《けいべつ》した調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々《にがにが》しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女を宥《なだ》めるような口調で云った。
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
「わたくしは結婚前から津田を知っております」
「しかしその前は御存じないでしょう」
「当り前ですわ」
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