を擱《お》いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削《てんさく》の必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海《げんかい》を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取り繕《つくろ》っただけで、彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受取る父母に断った。
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。嘘《うそ》や、気休《きやすめ》や、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎《にく》みます、軽蔑《けいべつ》します、唾《つばき》を吐きかけます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部《うわかわ》の事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私はけっしてあなた方を欺《あざ》むいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙《あざむき》の手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲目《めくら》です。その人こそ嘘吐《うそつき》です。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」
 お延は封書を枕元へ置いて寝た。

        七十九

 始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに父母《ちちはは》の顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日《にさんち》して、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙《いっちつ》の唐本《とうほん》を持って、彼女は五六町|隔《へだた》った津田の宅《うち》まで行かなければならなかった。軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然《つれづれ》を慰《なぐさ》めるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立《ついたて》が立ててあった。白い紙の上に躍《おど》っているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立の後《うしろ》から取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都の家《うち》へ来ていた由雄であった。
 二人は固《もと》よりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただ噂《うわさ》で由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。
 由雄はその時お延から帙入《ちついり》の唐本《とうほん》を受取って、なぜだか、明詩別裁《みんしべっさい》という厳《いか》めしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作《しょさ》に違なかった。顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄がまた呼びとめて、自分の父|宛《あて》の手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意を惹《ひ》いた。彼の遣口《やりくち》は不作法《ぶさほう》であった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野《がさつ》とか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。
 手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用《いりよう》の書物を探しに奥へ這入《はい》った。しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延を空《むな》しく引きとめておいた詫《わび》を述べた。指定《してい》の本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日《あした》にでも取りに来るからと約束して宅《うち》へ帰った。
 するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手に提《さ》げた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗《さらさ》の風呂敷に包んで、あたかも鳥籠《とりかご》でもぶら下げているような具合にしてお延に示した。
 彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人には堪《た》えられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。それでもこちらから借りに行った呉梅村詩《ごばいそんし》という四文字《よもじ》を的《あて》に、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。父はあつく彼の好意を感謝した。……
 お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と別人《べつにん》ではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変ったのであった。最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方に牽《ひ》きつけられるように変って来た。いったん牽きつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。彼女の疑はほとんど彼女の事実であった。彼女はその疑《うたがい》を拭《ぬぐ》い去るために、その事実を引《ひ》ッ繰《く》り返さなければならなかった。

        八十

 強い意志がお延の身体《からだ》全体に充《み》ち渡った。朝になって眼を覚《さ》ました時の彼女には、怯懦《きょうだ》ほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起《ねおき》の悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を跳《は》ね退《の》けて、床を離れる途端《とたん》に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒《あささむ》の刺戟《しげき》と共に、締《し》まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
 彼女は自分の手で雨戸を手繰《たぐ》った。戸外《そと》の模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日《きのう》に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉《うれ》しかった。怠《なま》けて寝過した昨日の償《つぐな》い、それも満足の一つであった。
 彼女は自分で床を上げて座敷を掃《は》き出した後で鏡台に向った。そうして結《ゆ》ってから四日目になる髪を解《と》いた。油で汚《よご》れた所へ二三度|櫛《くし》を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂《ひさし》に束《つか》ね上《あ》げた。それが済んでから始めて下女を起した。
 食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳《ぜん》に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。
「今日は旦那様《だんなさま》のお見舞に行かなければならないからね」
「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」
「ええ。昨日《きのう》行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」
 お延の言葉遣《ことばづかい》は平生より鄭寧《ていねい》で片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
 それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。襷《たすき》を外《はず》して盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になった覚《おぼえ》のあるその家族は、お時にとっても、興味に充《み》ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物《のけもの》にされたような変な結果に陥《おちい》るからであった。ふとした拍子からそんな気下味《きまず》い思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴《ふいちょう》したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨《むね》を言い含めておいたのである。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」
「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」
「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急《せっかち》だから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好《きりょうよ》しだしね」
 お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞《せじ》を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後《あと》をつけた。
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧《りこう》でも、気が利《き》いていても、顔が悪いと男には嫌《きら》われるだけね」
「そんな事はございません」
 お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
 お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
 お時は呆《あき》れた顔をしてお延を見た。
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」
 お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
 彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外《そと》から誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴《ベル》が鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主《ぬし》を判断しようとして首を傾けた。

        八十一

 袖《そで》を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈《か》け込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただおかしさを噛《か》み殺そうとして、お延の前で悶《もだ》え苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。
 この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯を締《し》めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取《かけとり》でも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。姿見《すがたみ》の前に立《た》ち竦《すく》んだ彼女は当惑の眉《まゆ》を寄せた。仕方がないので、今|出《で》がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。しかし会って見ると、満更《まんざら》知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。その上小林は斟酌《しんしゃく》だの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人に引《ひけ》を取らないように、天から生みつけられた男であった。お延の時間が逼《せま》っているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支《さしつか》えないものと独《ひと》りで合点《がてん》しているらしかった。
 彼は津田の病気をよく知ってい
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