やがて来《きた》るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……
 叔父の言葉のどこまでが藤井の受売《うけうり》で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目《まじめ》で、どこからが笑談《じょうだん》なのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つ術《すべ》を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒《しんぼう》があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、膏《あぶら》が乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」
「口じゃとても敵《かな》いっこないからお止《よ》しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」
「ええ、わざわざ陰陽不和を醸《かも》すように仕向けるのね」
 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切《とぎ》れるのを待って、徐《おもむ》ろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜《よろ》しい。敗《ま》けたものを追窮《ついきゅう》はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐《あわ》れむという美点があるんだからな、こう見えても」
 彼はさも勝利者らしい顔を粧《よそお》って立ち上がった。障子《しょうじ》を開けて室《へや》の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前|明日《あした》にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」
「何よ」
 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾《ひろ》い読《よみ》にぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……
「へええ」
「みんな滑稽《こっけい》なもんだ。洒落《しゃれ》だとか、謎《なぞ》だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝《こ》らなくってね」
「なるほど叔父さん向《むき》のものね」
「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支《さしつか》えあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」
「怒るなんて、……」
「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」
 お延が礼を云って書物を膝《ひざ》の上に置くと、叔父はまた片々《かたかた》の手に持った小さい紙片《かみぎれ》を彼女の前に出した。
「これは先刻《さっき》お前を泣かした賠償金《ばいしょうきん》だ。約束だからついでに持っておいで」
 お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利《き》く薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒《へいゆ》する妙薬だ」
 お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体《からだ》はいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」
 叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい溜《たま》った。

        七十七

 お延は叔父の送らせるという俥《くるま》を断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁《かわべり》の方へ下りて行った。
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
 肥っていて呼息《いき》が短いので、坂を上《のぼ》るときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。
 二人は途々夜の更《ふ》けた昨夕《ゆうべ》の話をした。仮寝《うたたね》をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父の家《うち》にいたという縁故で、新夫婦|二人《ふたり》ぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守《るす》なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だが独《ひと》りで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯《とし》が年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」
 いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの想《おも》いやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日《きのう》の結果を、今度は繰《く》り返《かえ》させたくないという主意からであった。
 彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が辛《かろ》うじて別れの挨拶《あいさつ》を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。
 車内のお延は別に纏《まと》まった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日《きのう》からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩《めまぐる》しい影像《イメジ》を一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調《こんちょう》で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定《ねんてい》しなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効《せいこう》をもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いている串《くし》を見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。
 玄関の格子《こうし》を開ける音と共に、台所の方から駈《か》け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧《ていねい》な頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切《はっきり》した態度を、さも自分の手柄《てがら》ででもあるように感じた。
「今日は早かったでしょう」
 下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
 自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊《き》いた。
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」
 お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰も来《き》やしなかったろうね」
 するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高《ちょうしだか》な返事をした。
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」
 夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を利《き》いた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套《がいとう》を取りにいらっしゃいました」
 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
 周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊《き》けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生《よみが》えった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作《ほっさ》のように込《こ》み上《あ》げてくる滑稽感《こっけいかん》に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中《うち》から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。

        七十八

 お延はその晩京都にいる自分の両親へ宛《あ》てて手紙を書いた。一昨日《おととい》も昨日《きのう》も書きかけて止《や》めにしたその音信《たより》を、今日は是非《ぜひ》とも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。
 彼女は落ちつけなかった。不安から逃《のが》れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻《さっき》からの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纏《まと》めて見る事ができそうに思えたのである。
 筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶《あいさつ》から始めて、無沙汰《ぶさた》の申し訳までを器械的に書き了《おわ》った後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息を的《まと》におかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまた生家《せいか》の父母《ふぼ》に知らせなくってはすまない事項であった。それを差し措《お》いて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄《あいだがら》は、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物を父母《ふぼ》に報知する必要に逼《せま》られてはいなかった。けれどもある男に嫁《とつ》いだ一個の妻として、それを見極《みきわ》めておく要求を痛切に感じた。彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればするほど、確《しか》としたところは手に掴《つか》めなかった。
 手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。先刻《さっき》電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像《イメジ》は、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根《おおね》に辿《たど》りついた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。
「今日《こんにち》解決ができなければ、明日《みょうにち》解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日《みょうごにち》解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」
 これが彼女の論法《ロジック》であった。また希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を飽《あ》くまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」
 彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
 彼女の気分は少し軽《かろ》くなった。彼女は再び筆を動かした。なるべく父母《ふぼ》の喜こびそうな津田と自分の現況を憚《はばか》りなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人の趣《おもむき》が、それからそれへと描出《びょうしゅつ》された。感激に充《み》ちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。
 しまいに筆
前へ 次へ
全75ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング