ないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」
 こう云った百合子は年上の二人と共に声を揃《そろ》えて笑った。そうして袴《はかま》も脱がずに、火鉢《ひばち》の傍《そば》へ来てその間に坐《すわ》りながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子《もちがし》を食べ出した。
「今頃お八《や》ツ? このお皿を見ると思い出すのね」
 お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて各自《めいめい》の前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。旨《うま》そうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」
「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫《おっくう》だし、そうかって宅《うち》に何かあっても、昔《むか》しのように旨《おい》しくないのね、もう」
「運動が足りないからでしょう」
 二人が話しているうちに、百合子は綺麗《きれい》に木皿を空《から》にした。そうして木に竹を接《つ》いだような調子で、二人の間に割り込んで来た。
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」
「そう、どこへいらっしゃるの」
「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」
「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」
「何という名だか知らないけれども、行くのよ」
 お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」
 百合子は平気で答えた。
「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」
 薄赤くなった継子は急に妹《いもと》の方へかかって行った。百合子は頓興《とんきょう》な声を出してすぐそこを飛《と》び退《の》いた。
「おお大変大変」
 入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人で室《へや》を逃げ出して行った。

        七十四

 お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから間《ま》もなくであった。
 一家のものは明るい室に晴々《はればれ》した顔を揃《そろ》えた。先刻《さっき》何かに拗《す》ねて縁の下へ這入《はい》ったなり容易に出て来なかったという一《はじめ》さえ、機嫌《きげん》よく叔父と話をしていた。
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹《いとこ》から、彼がぱくりと口を開《あ》いて上から鼻の先へ出された餅菓子《もちがし》に食いついたという話を聞いたのであった。
 お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さま彗星《ほうきぼし》が出ると何か悪い事があるんでしょう」
「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が開《ひら》けたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」
「西洋では」
 西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」
「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」
「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。
「ありゃ羅馬《ローマ》の時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」
 一《はじめ》はそれで納得《なっとく》して黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落《おっ》こちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨《ようし》であった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、傍《はた》のものはみんなおかしがった。
「そりゃお前落ちないさ」
「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」
「そう旨《うま》くは行かないよ」
 女連《おんなれん》が一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。
「お父さま、僕この宅《うち》が軍艦だと好いな。お父さまは?」
「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」
「だって地震の時宅なら潰《つぶ》れるじゃないの」
「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」
 本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻《さっき》藤井を晩餐《ばんさん》に招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一に訊《き》いて見たくなった。
「一さん藤井の真事《まこと》さんと同級なんでしょう」
「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力で賑《にぎ》わった。
 みんなを笑わせた真事の逸話の中《うち》に、下《しも》のようなのがあった。
 ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を覗《のぞ》き込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢《はいのう》を背負《しょ》って、尨犬《むくいぬ》の皮で拵《こしら》えたといわれる例の靴を穿《は》いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつる滑《すべ》りそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急に怖《こわ》くなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへ置《お》き去《ざ》りにして、どんどん逃げだした。真事はまた始終《しじゅう》足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険を仕遂《しと》げて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。
「一の方が少し小悧巧《こりこう》のようだな」と叔父が評した。
「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。

        七十五

 小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。否《いや》でも顔を合せなければならない祝儀《しゅうぎ》不祝儀《ぶしゅうぎ》の席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才《じょさい》なさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面《おうだんめん》もあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向《くらしむき》に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大|不遜《ふそん》の誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味に適《かな》う模細工《モザイック》で毎日|埋《う》めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。
 これらの原因が困絡《こんがら》がって、叔父は時々藤井の宅《うち》へ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、律義《りちぎ》に叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼を厭《いや》がる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。底《そこ》まで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにも迂濶《うかつ》なものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」
 お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って他《ひと》をごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただ理窟《りくつ》を弄《もてあそ》んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながら訊《き》いた。
「近頃藤井さんへいらしって」
「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥《くたび》れた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」
「また何か面白いお話しでもあって」
「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」
「あら厭《いや》だ」
「馬鹿らしい、好い年をして」
 お延と叔母はこもごも呆《あき》れたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。
「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこの宅《うち》でも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」
 親身《しんみ》の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目《まじめ》になった。
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は始終《しじゅう》引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしても充《み》たす訳に行かないんだ」
 お延の興味は急に退《ひ》きかけた。叔父の云う事は、自分の疾《と》うに知っている事実に過ぎなかった。
「昔から陰陽和合《いんようわごう》っていうじゃありませんか」
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」
 叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ理窟《りくつ》よ」
「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟《へりくつ》よ」
 お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのは厭《いや》であった。

        七十六

 叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
 男が女を得て成仏《じょうぶつ》する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度《ひとたび》夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪《にく》くなる。今までの牽引力《けんいんりょく》がたちまち反撥性《はんぱつせい》に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺《ことわざ》を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙《あ》げるのは、
前へ 次へ
全75ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング