しが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」
 お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
 お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
 神籤《みくじ》に何の執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯《たわむ》れたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に憶《おも》い起させる良《い》い媒介《なかだち》であった。弱いものの虚《きょ》を衝《つ》くために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌《かっぱつ》にした。抑えられた手を跳《は》ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただ神籤箱《みくじばこ》を継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚《はばか》りなく出して、遊技的《ゆうぎてき》な戦いに興を添えた。二人はついに硯箱《すずりばこ》の前に飾ってある大事な一輪挿《いちりんざし》を引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》した。紫檀《したん》の台からころころと転がり出したその花瓶《かびん》は、中にある水を所嫌《ところきら》わず打《う》ち空《あ》けながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意に放《ほう》り出《だ》された可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。

        七十一

 偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く雑巾《ぞうきん》を取っていらっしゃい」
「厭よ。あなたが零《こぼ》したんだから、あなた取っていらっしゃい」
 二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。
「じゃジャン拳《けん》よ」と云い出したお延は、繊《ほそ》い手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。
「狡猾《ずる》いわ」
「あなたこそ狡猾いわ」
 しまいにお延が負けた時には零《こぼ》れた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗《きれい》に吸い込まれていた。彼女は落ちつき払って袂《たもと》から出した手巾《ハンケチ》で、濡《ぬ》れた所を上から抑《おさ》えつけた。
「雑巾なんか要《い》りゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」
 彼女は転がった花瓶《はないけ》を元の位置に直して、摧《くだ》けかかった花を鄭寧《ていねい》にその中へ挿《さ》し込んだ。そうして今までの頓興《とんきょう》をまるで忘れた人のように澄まし返った。それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。
 発作《ほっさ》が静まった時、継子は帯の間に隠した帙入《ちついり》の神籤《みくじ》を取り出して、傍《そば》にある本箱の抽斗《ひきだし》へしまい易《か》えた。しかもその上からぴちんと錠《じょう》を下《おろ》して、わざとお延の方を見た。
 けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹《いとこ》より早く醒《さ》めてしまった。
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」
 彼女はこう云って継子を見返した。当《あた》り障《さわ》りのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
 自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる兼《かね》ての不平も交っていた。
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」
 二人は年齢《とし》が違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
 お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」
 継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定《かんじょう》に入れていなかった。
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様《だんなさま》を亡《な》くなして、未亡人《びぼうじん》になるとか」
 継子は少し怪訝《けげん》な顔をしてお延を見た。
「延子さんは宅《うち》にいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」
「そりゃ……」
 お延は口籠《くちごも》った。継子は彼女に返答を拵《こしら》える余地を与えなかった。
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
 お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんのように押しつめて来ちゃ敵《かな》わないわね」
「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」

        七十二

 だんだん勾配《こうばい》の急になって来た会話は、いつの間《ま》にか継子の結婚問題に滑《すべ》り込んで行った。なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女《なんにょ》関係に一日《いちじつ》の長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。彼女は差し障《さわ》りのない際《きわ》どい筋の上を婉曲《えんきょく》に渡って歩いた。
「そりゃ駄目《だめ》よ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、他《ひと》の事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」
「そんなに遠慮しないだってよかないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
 お延は答える前にしばらく間《ま》をおいた。
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄《てがら》をするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯《しょうがい》にそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯に一返《いっぺん》も来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目《めくら》同然よ。少なくとも平生は」
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって岡目八目《おかめはちもく》って云うじゃありませんか。傍《はた》にいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
 お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりは改《あらたま》った態度で口を利《き》き出した。
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」
 お延はそこで句切《くぎり》をおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後を継《つ》ぎ足《た》した。
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を択《えら》ぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」
 継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
 お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から迸《ほとば》しり出した。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」
 こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好《みよし》の影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、真《ま》ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。
「誰を」と云った彼女は少し呆《あき》れたようにお延の顔を見た。「昨夕《ゆうべ》お目にかかったあの方《かた》の事?」
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
 平生|包《つつ》み蔵《かく》しているお延の利かない気性《きしょう》が、しだいに鋒鋩《ほうぼう》を露《あら》わして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつ後《あと》へ退《さが》った。しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女は微《かす》かな溜息《ためいき》さえ吐《つ》いた。するとお延が忽然《こつぜん》また調子を張り上げた。
「あなたあたしの云う事を疑《うたぐ》っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘《うそ》なんか吐《つ》いちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」
 こう云って絶対に継子を首肯《うけが》わせた彼女は、後からまた独《ひと》り言《ごと》のように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡《りょうけん》一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然《ばくぜん》と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。

        七十三

 その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主《ぬし》ががらりと室《へや》の入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶《あいさつ》した。
 彼女の机を据《す》えた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手の隅《すみ》であった。お延が津田へ片づくや否や、すぐその後《あと》へ入る事のできた彼女は、従姉《いとこ》のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合《こうつごう》のように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」
 百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の開《あ》きそうになった黒い靴足袋《くつたび》の親指の先を、手で撫《な》でていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し間《ま》をおいてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相《かわいそう》だと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」
「そうね」
 百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出され
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