にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸《どうき》がしたからである。
「昨日《きのう》の見合に引き出されたのは、容貌《ようぼう》の劣者として暗《あん》に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
 お延の頭に石火《せっか》のようなこの暗示が閃《ひら》めいた時、彼女の意志も平常《へいぜい》より倍以上の力をもって彼女に逼《せま》った。彼女はついに自分を抑《おさ》えつけた。どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんは得《とく》な方《かた》ね。誰にでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々《すきずき》だからね。あんな馬鹿でも……」
 叔父が縁側《えんがわ》へ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。

        六十八

 すると今まで抑《おさ》えつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。飽《あ》くまで機嫌《きげん》の好い、飽くまで元気に充《み》ちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさに刺戟《しげき》した。
「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」
 彼女は藪《やぶ》から棒にこう云わなければならなかった。今日《こんにち》まで二人の間に何百遍《なんびゃっぺん》となく取り換わされたこの常套《じょうとう》な言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。表情にも特殊なところがあった。けれども先刻《さっき》からお延の腹の中にどんな潮《うしお》の満干《みちひ》があったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。
「そんなに人が悪うがすかな」
 例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻煙草《きざみ》を雁首《がんくび》へ詰めた。
「おれの留守《るす》にまた叔母さんから何か聴《き》いたな」
 お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」
「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを犢鼻褌《ふんどし》のミツへ挟《はさ》んでいるか、または胴巻《どうまき》へ入れて臍《へそ》の上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」
 叔父の笑談《じょうだん》はけっして彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いて眉《まゆ》と睫毛《まつげ》をいっしょに動かした。その睫毛の先には知らない間《ま》に涙がいっぱい溜《たま》った。勝手を違えた叔父の悪口《わるくち》もぱたりととまった。変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。
「お延どうかしたのかい」
 こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、煙管《きせる》で灰吹《はいふき》を叩いた。叔母も何とかその場を取り繕《つく》ろわなければならなくなった。
「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」
 叔母の小言《こごと》は、義理のある叔父の手前を兼た挨拶《あいさつ》とばかりは聞えなかった。二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。お延はそれをよく承知していた。けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。彼女の唇《くちびる》が顫《ふる》えた。抑えきれない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まで堰《せ》きとめていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。
「何もそんなにまでして、あたしを苛《いじ》めなくったって……」
 叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。賞《ほ》めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれを皆《みん》な蔭《かげ》で感心しているんだ。だから……」
「そんな事|承《うかが》わなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」
 沈黙がすこし続いた。
「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの調戯《からか》い方《かた》が悪かったのかい」
「いいえ。皆《み》んなあたしが悪いんでしょう」
「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないから訊《き》くんだ」
「だから皆《みん》なあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」
「だが訳を云わないからさ」
「訳なんかないんです」
「訳がなくって、ただ悲しいのかい」
 お延はなお泣き出した。叔母は苦々《にがにが》しい顔をした。
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。宅《うち》にいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。お嫁に行きたてで、少し旦那《だんな》から大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」
 お延は唇《くちびる》を噛《か》んで黙った。すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。
「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し冷評《ひやか》し過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」
 ようやく発作《ほっさ》の去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、跋《ばつ》の悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。

        六十九

 ところへ何にも知らない継子《つぎこ》が、語学の稽古《けいこ》から帰って来て、ひょっくり顔を出した。
「ただいま」
 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出《みいだ》した人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時に挨拶《あいさつ》を返した。
「お帰んなさい」
「遅かったのね。先刻《さっき》から待ってたのよ」
「いや大変なお待兼《まちかね》だよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」
 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層|快豁《かいかつ》であった。
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
 こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆《さかさ》まに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。
 しかし下女が襖越《ふすまごし》に手を突いて、風呂の沸《わ》いた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
 けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
 こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその世話《せわ》しない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」
 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉《うれ》しいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
 叔母は婉曲《えんきょく》に自己を表現した。
「おおかたいらっしゃらないでしょう」
「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ止《よ》すか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」
 お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」
 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙《ごめんこうむ》ってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。
 叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧《かえり》みない叔母の態度は、お延にとって羨《うらや》ましいものであった。また忌《いま》わしいものであった。女らしくない厭《いや》なものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯《こうさく》した。
 立って行く叔母の後姿《うしろすがた》を彼女がぼんやり目送《もくそう》していると、一人残った継子が突然誘った。
「あたしのお部屋へ来なくって」
 二人は火鉢《ひばち》や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。

        七十

 継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井《てんじょう》にも残っていた。硝子戸《ガラスど》を篏《は》めた小さい棚《たな》の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇《ばら》の花を刺繍《ぬい》にした籃入《かごいり》のピンクッションもそのままであった。二人してお対《つい》に三越から買って来た唐草《からくさ》模様の染付《そめつけ》の一輪挿《いちりんざし》もそのままであった。
 四方を見廻したお延は、従妹《いとこ》と共に暮した処女時代の匂《におい》を至る所に嗅《か》いだ。甘い空想に充《み》ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然《こつぜん》鮮《あざ》やかな※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》に変化した自己の感情の前に抃舞《べんぶ》したのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯《ガス》があったから、ぱっと火が点《つ》いたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。顧《かえり》みるとその時からもう半年《はんとし》以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいは極《きわ》めて現実化され悪《にく》いものらしくなって来た。お延の胸の中《うち》には微《かす》かな溜息《ためいき》さえ宿った。
「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
 彼女はこういう観念の眼で、自分の前に坐《すわ》っている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期に外《はず》れた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否の賽《さい》が、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。
 お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお神籤《みくじ》を引いて上げましょうか」
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」
「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」
「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」
 継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れて貰《もら》いたい様子がありありと見えた。お延は従妹《いとこ》を喜《よろ》こばせてやりたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのは厭《いや》であった。
「じゃあた
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